上杉鷹山(治憲)は江戸時代中期の大名で、10歳のときに上杉家の養子となり、17歳で家督を継ぎ、窮乏状態にあった米沢藩を見事に立て直したことで知られている。鷹山は米沢藩を治める際、師と仰いだ学者の細井平洲から教えられた「藩主は常に民の父母とならなければならない」という考えを実践した。

これは、親が子どもを愛するように、子ども(民)の悲しみや苦しみを受け止め、それを何とか軽くしたいという「愛民の思想」である。だが、民が苦しみなく、他人のことを思い合う優しさや思いやりを持つ生活を送るためには、地盤となる国のインフラ整備が大事である。これは論語の中の「水は方円の器に従う」にも通じる。方は四角い入れ物のことで、水を四角い器から丸いコップの中に注ぎ替えればたちまち丸く姿を変える。つまり容器によって人の道はいかようにも変わるとすれば、容器を何とかしなければならない。容器づくり=インフラ整備をするには資金がかかる。

しかし当時、米沢藩の藩政は破滅の危機にあり、資本は限られていた。鷹山は倹約に励む一方で、民のために農業を中心とする産業振興策を実行した。米沢藩はそれまで北限の木綿、ミカン、お茶、ロウソクなど生活必需品の生産が不可能で、農民はこれらを得るために他藩から輸入しなければならなかった。そこで鷹山は拡大再生産することを考えた。手持ちの資源に付加価値を加えて、市場で高く売れるように藩外に輸出する増収策をとったのである。

たとえば米沢の風土や特性を活かして麻糸や楮こうぞ、桑、漆、紅花による染色などに着手・成功した。麻は糸の段階(原材料)で大和や越後などに輸出し、大和ではそれを使って奈良晒、越後では小千谷縮という高級な織物(製品)に生まれ変わった。これを見た鷹山は糸を輸出するという短期的な危機突破を実現するだけでなく、越後から織物の指導者を厚遇で呼び寄せ技術を導入した。今ある素材に高付加価値をつけて後世に残すという長期計画も同時に行ったのだ。これは現在の米沢織であり、山形県の名産になっている。

ただし、実際に取り組む民の指導をするのは役人たちである。鷹山は「休まず、遅れず、働かず」といった役人的な考え方を一切捨てさせ、全員に「後がない崖っぷちの危機に立っている」という共通認識を持たせた。そのうえで「異能」を掘り起こそうとした。財政再建という藩全体の目的を達成するために、時限的タスクフォースを課し、プロジェクトチームを編成した。もし農業技術に長けた役人がいたら職業区分を超えて農業に従事させる。意識改革の藩内研修でそれまで発掘されていなかった異能を見つけ出し、改革の理念・目的を再認識させた。

鷹山は「米沢藩は倒産寸前で、冷え切った灰の上に存在しているようなものだ。けれども自分には超能力があるわけではないので、自分にやれる範囲のことをやろう。そう思って足元の灰を掘ってみたら、まだ消えていない小さな火種が残っていた」と考えたといわれている。

この火種を胸の中の木炭に吹きつけ、何とかして人々のやる気を起こさせるようにした。火種を起こす運動をすればそれが民の心にも“飛び火”して相乗効果をもたらすはずだ。民からも「我々のためにお上がこんなにがんばってくれているなら、自分たちも手伝おう」という協力の姿勢と共感が生まれる。鷹山は官と民のマインドが一体化し、目的に向かって突き進むことに期待をかけたのである。

(中島 恵=構成)