勝負強い監督、接戦に弱い監督……、監督の発想は、すべて現役時代のポジションから湧き出ている。歴代監督をポジション別に徹底分析する。

「捕球の名人vs守備の達人」対決

1986年の西武対広島の日本シリーズは、似たもの同士の監督対決になった。西武監督の森祇晶が捕手出身なら、広島監督の阿南準郎は、三塁手(797試合)、遊撃手(356試合)、二塁手(286試合)をこなした内野のユーティリティープレーヤー。森がパスボールをしない「捕球の名人」なら、阿南はエラーが少ない「守備の達人」。2人は将棋と囲碁をこよなく愛する知恵者でもあった。

それだけではない。2人とも、同じ1937年生まれで、監督就任1年目に新人監督ながらリーグ優勝をはたした。

さらに、森が広岡達朗の後任監督なら、阿南は古葉竹識の後継監督。前任者はいずれも名将と呼ばれた監督だけに、お互いに負けられなかった。

そんな似たもの同士がぶつかり、激しい火花を散らしたせいだろう。日本シリーズは史上初の第8戦までもつれ込んでいる。

第1戦(広島市民球場)は東尾修(西武)、北別府学(広島)の両エースが先発。西武は2回表に1点、4回表に1点を取り、2対0とリード。東尾は8回まで三塁を踏ませない完璧なピッチングだったが、9回裏につかまる。3番・小早川毅彦(一塁手)と4番・山本浩二(左翼手)にソロホーマーを浴び、2対2の同点。

東尾はライトスタンドぎりぎりに飛び込んだ山本のホームランに、

「西武球場なら、ライトフライだった」

と、唇を噛んだ。

西武は渡辺久信(4回3分の2)、松沼雅之(1回)と継投。広島も清川栄治(3分の1)、川端順(5回)、津田恒美(3分の2)とつなぎ、延長14回、2対2の引き分けに終わった。

森が誤算を語る。

「延長戦に持ち込まれたことで、渡辺と松沼弟を使わざるを得なかった。2人を投入したことで、2戦以降、投手のやりくりが難しくなった」

一方の阿南は、1975年の上田阪急との日本シリーズで、コーチとして2試合も引き分けを経験しており、動揺はなかった。

第2戦は、西武が3回表、3番・秋山幸二(三塁手)のソロホーマーで先制したが、4回裏、先発の工藤公康が二死二、三塁から、7番・正田耕三(二塁手)にカーブをレフト線に流し打たれ、1対2。西武は広島の大野豊に完投を許して敗れた。

第3戦(西武球場)は、2回裏、7番・辻発彦(二塁手)のレフト前ヒットで1点先制したが、4回表、4番・山本浩二(左翼手)がセンターへタイムリーヒットを放ち、1対1の同点。なおも5回表、一死二塁から、8番・達川光男(捕手)がライトに流し打ち、2対1と逆転。9番・長冨浩志(投手)のレフト犠牲フライにつづき、3本のヒットを連ね、この回3点を奪い、4対1とリード。西武は7回裏に1番・石毛宏典(遊撃手)の2ランで追撃したが、およばなかった。