為末 大氏

ソチ五輪開催前のことになるが、ロシアの棒高跳びのイシンバエワ選手が、ソチでオリンピックに参加する選手は、LGBT(男女同性愛者、両性愛者、トランスジェンダー)のプロパガンダ行為を禁止するロシアの法律に従うべきだと述べて世の中から叩かれ、謝罪を出す事態にまで発展した。もともとこの法律は、ヨーロッパやアメリカが人権侵害だといって批判していていた。国内世論にも配慮して、大統領が開会式を欠席までしたアメリカやフランスはLGBTに寛容な国だが、イシンバエワを叩いている人のなかにはさまざまな国籍の人がいた。ロシアと似たりよったりの価値観の国だって少なくはなかったはずだ。

個人的にはLGBTの流れは進んでほしいと思っているが、人々がしっかりと議論して納得する前に先進国ではこれが主流だからという理由で、他の国に同じ正義を押し付けていいのだろうか。もし世界中同じ価値観を共有する事を求められたら、それはそれで息苦しい。そしてもっと怖いのは、そこに何の問題意識もなかった人たちが、一旦勢いがつくと一気に乗っかるという構図だ。

このところ、消費者の批判によって販売をとりやめる、ドラマのスポンサーをおりる、CMを打ち切る、といった事例が相次いでいる。この批判者というのは、消費者全体のどのくらいの割合なのだろう。消費者がことごとく不快に思っているのか、一部の人が騒いでいるだけなのか。実際には「え? これアウトにしちゃうの?」という感覚の人も多いようにも思う。インターネット上の評価は極端に増幅されて感知されていて、実社会の人々の感覚と乖離しているのではないか。ネットだからこそクレームとして力を持ってしまったという点もあるだろう。例えばどこかの地方のお土産物屋さんのポスターに差別的ととられかねない表現があったとしても、ほとんどの人が気づかずに何年もそこに貼られていたりするのではないだろうか。インターネット上には一つの正義に染まりやすいような空気があって、企業側の担当者も過敏に空気を読み過ぎている場合もあると思う。

そうした正義の空気を強く感じたのは震災後のことだった。被災地に関係ない発言でも「被災者がいるのにそんなことを言うのは不謹慎」といって叩きに来る人たちがあとをたたなかった。叩いている人のほとんどが当事者ではなかったと思う。何かに似ていると思ったら、これはいじめの構造だ。いじめている子といじめられている子の関係によっていじめが成立するのではなく、周辺の人間がいじめている子に乗っかっていく過程でいじめの空気ができていく。当事者以外がいじめを加速させる。なぜ乗っかっていくのか。自分のなかにくすぶっている不満がある子はそのはけ口として。もうひとつはただの暇つぶし、エンターテイメントとして。誰かが原因でいじめが起きるというよりも、いじめたいから対象を探す。