7月、パリに2週間滞在した。日本にいると、どうしてもじっくり研究に取り組んだり、考えたりすることができない。そこで、「サバティカル」の期間を過ごしたのだ。

意外な出会いがあった。パリ在住の作家、辻仁成さんに教えていただいた蕎麦屋。エコール・ノルマルや、ソルボンヌのある学術地区から坂を下ってたどり着くサンジャルマン・デ・プレの「円」(YEN)に、何度も通った。

サルトルやボーボワールも常連だったという「ドゥ・マゴ」や「フロール」といったカフェで一杯引っかけて、「円」に行く。焼酎を飲みながら、てんぷら蕎麦を食べる。周囲を見ると、フランス人たちが、箸を器用に使いながらうまそうに食べている。

パリに寿司屋が氾濫していることは周知の通り。もはや、「寿司」は日常食となった。しかし、まさか、日本文化の「奥の院」である、お酒を飲み、蕎麦を食べるという快楽にまで、フランス人が「侵入」してくるとは思わなかった。

グローバリズムの時代。しかし、世界のすべてが画一化するということではない。アダム・スミスが『国富論』で唱えた国際分業の概念は、ますます有効である。国際分業、そして、個人分業。それぞれが、得意の分野で力を発揮してこそ、その「かけ算」としてのグローバリズムという有機体が輝く。

インターネットなどの分野においては、アメリカに圧倒的に押されがちな日本。製造業でも、中国をはじめとするアジア各国との苛烈な競争の中にある。しかし、考えてみればまだまだ日本が比較優位に立つ分野も多い。「食」は、その典型なのではないか。

東京・神田。「やぶそば」や「まつや」といった名店で、蕎麦をすする時間の愉悦。理想的には夕方早くに出かけて、まずはつまみで酒を飲む。いい加減に出来上がったところで、蕎麦を注文する。あの贅沢な時の流れは、日本人の魂の「ふるさと」である。

まさか、蕎麦の繊細な味など外国人にはわかるまい。そんなふうに勝手に思い込んでいても、わかる人はわかってしまう。「奥の院」に隠された喜びは、いつかは必ず発見されてしまう。その一つの成功例が、サンジャルマン・デ・プレの「円」だろう。

グローバリズムとは、それぞれの文化の奥深くにまで、経済の「神の見えざる手」が伸びてくるということ。私たち日本人は、まだまだ、自分たちの持っている宝ものに気付かないでいるのではないか。

フランスにおける「蕎麦屋」ビジネスにはまだまだチャンスあり!(PANA=写真)

フランスにおける「蕎麦屋」ビジネスにはまだまだチャンスあり!(PANA=写真)

自前で蕎麦を打っている店は、まだヨーロッパでは2ヵ所だけなのだという。かの地における本格的な「蕎麦屋」ビジネスには、まだまだ圧倒的な成長余力がある。目を転じてみれば、日本の食には、まだまだ世界で知られていない「奥の院」の喜びがたくさんあるのではないか。

グローバリズムの下で成長するとは、出自を隠して無味無臭の「スタンダード」になることではない。むしろ、ローカルな匂いを出したほうが商品になる。

1990年代半ばに英国に留学していたとき、オタフクソースを入手して、友人にお好み焼きをふるまったことがあった。彼は目を輝かせて食べ、「不思議な食べ物だ。食べれば食べるほど、もっと食べたくなる」と言ったものである。ヨーロッパでお好み焼きを展開するビジネスだって、もちろんあっていい。

日本文化の「奥の院」を海外に紹介、展開するビジネスには、まだまだ無限のチャンスがある。果敢なチャレンジを期待したい。

(若杉憲司=撮影 PANA=写真)