こうした、いわば拠るべきところがない「底が抜けた」状況の中で、復興のありうべき姿が探られる。このプロセスは、復興にとって回避することができないプロセスである。そのために、何はともあれ、関係者同士の相互の対話が必要だ。
「対話」には、「対話する当事者同士が、自分が変わり、相手が変わる」という姿勢が条件だ。「私は変わらず、あなたが変わる」だと、それは対話とは言わない。指示、命令になる。
「自分が変わり、相手も変わる」中で、ある結論や合意に至るだろう。だが、そこに至った自分とは、対話を始めたときの自分ではなくなっている可能性が大きい。
ただ、そこにいつ到達できるのか事前に予想できない。目標自体が定まっておらず、その目標を決めようとするのだから、それも当然である。その点で、先の合理的思考のマネジメントのプロセスと、対極にある。
合理的マネジメントの場合は、目標は明確で、解決までの時間も定まっている。両者共に必要だからといって、同時にこなすこともできない。たとえば、こんなことを考えるとわかりやすい。
将棋を指しているとしよう。相手の玉の詰め筋を発見しようといろいろ頭の中でシミュレーションしているそのとき、相手から急に、「飛車が、角行のように盤上を斜めに進めるようにしようよ。将棋はもっと面白くなるぞ」と言われた状況である。「こいつ、おかしくなったのか」と思ってしまうだろう。
合理的な判断が迫られているときに、その前提を根こそぎ取り払ってしまう提案に応えるすべはない。つまり、同時に2つのプロセスを進行させることはできない。
東北という広域を、日本においてリポジショニングする。自らの住む土地の生活の糧となる産業を、日本あるいは世界の水産業や農業や工業の中でリポジショニングする。その中で、被災地のあるべき生活をリポジショニングする。
今は、こうした、復興の基礎となる新しい視点が次々に提起されている。ちょっとした議論の舵取りで、議論の焦点が変わりそうだ。まさに、曖昧さの中にある。
あらためて、合理的思考のマネジメント以外に、「自分が変わり、相手が変わる」対話を通じて曖昧さを縮減するマネジメントが社会や組織には必要であることを、認識したい。
この対話のプロセスは、決して無駄なプロセスではない。先のデザイナーの主張に従えば、「わかっていたはずのことが、実は、わかってはいなかった」という経験を経由することなく、創造性が生まれてくることはない。そのことだけは、はっきりしている。
曖昧さのマネジメントは、震災復興という「公共」の中でその場を得た。だが、ふつうの組織では、毎日の厳しい競争の中で、合理的思考のマネジメントが組織を支配し、曖昧なプロセスはその余地をなくす。つねに新しい姿が望まれている組織においては、それは間違っている。その意味では、曖昧さを尊重する対話マネジメントを制度的に担保することが必要なのだ。