姉からの連絡
母親が筑紫さんと同居して約2カ月が過ぎたが、その間に姉が筑紫さん宅に来たのは8月のお盆に一度だけだった。一方、84歳の叔母はときどき電話をかけてきては、母親の様子をたずね、筑紫さんを労ってくれる。
「姉は、『叔母が親戚中に母が倒れたことを話した!』と怒っていました。恐らく、実家で一緒に暮らしていた自分が母を看ずに、県外に住む私が看ることになった本当の理由を知られたくないのでしょう」
母親が筑紫さんと暮らすことを選んだと知った時、「私はこっち(実家)でできることをするわ」などと言っていたが、母親が好きな食べ物を送って来るわけでもなく、「必要な物はないか」と聞いてくることもなかった。義兄に至っては、母親が転院した日を最後に、リハビリ病院には一度も面会に来なかった。
「私や私の夫に対して『お願いします』の一言もなく、驚きました。母を看る覚悟で、母の土地を担保に入れて住宅ローンを借りたのではなかったのか? あなたたちが住んでいるその家を建てることができたのは、母のお陰ではないのか……? 現在の姉と義兄を見て、やっぱりこの2人に母を任せなくて良かったとつくづく思います」
敬老の日にも、姉の2人の子どもたちからは、何の連絡もなかった。姉の長女は高校3年の時に不登校になり、母親は当時からとても心配し、いろいろと世話を焼いた。
その時、姉は「お母さんに構わないように言って! このままじゃお母さんのせいで長女がダメになる!」と筑紫さんにLINEを送ってきた。
筑紫さんは、「本当にそう思うなら、家族みんなで実家を出ればいいのに」と思ったが、ぐっと堪えて「今までお母さんにいろいろしてもらってたのに、今になって手を出すなと言っても無理だと思うよ」と返した。
「姉は、露骨に長男ばかりを可愛がっていたから、いつかこうなるのではと心配していました。長女は、高3になっても人と目を合わせて話すことも挨拶もできず、ほとんど笑わない、とても暗い子に育ってしまいました。母はそんな孫が不憫だったのでしょう。不登校の時には、姉ではなく母が保険室の先生と連絡を取っていました」
ただ、幸いにも長女は大学進学を機に家を出たら、みるみる明るくなった。
「姉は、『お母さんのせいでダメになる』と言っていましたが、違うと思います。あの子が笑わない子になったのは、姉ちゃんのせい。母が転院して間もない頃、私が姉に『お母さん、まだ笑わないね』と言うと、姉は『前から笑わないよ』と平然と言いました。その時私は、『あ、姉ちゃんは娘だけじゃなく、お母さんまで笑えなくしたんだ』と唖然としました。いつから姉はあんな人になってしまったんでしょう……」
お盆に会った後、姉からの連絡は2カ月なかった。