ロシア軍侵攻による強奪、飢餓、侮辱

8歳の頃、父から刀のようなナイフをつくってもらった。熊や野犬の住む山に入るには必需品だ。自分の身を守りながら、食糧の魚を釣りに行くのだ。ヒヤッとしたことも何度もあったが、地面に残った熊の足跡や草木の切り口の露を見て、いつここを動物が通ったかを見極めたとか。

13歳の時に終戦を迎え、さらに厳しい生活が一家を襲った。ロシア軍が海岸沿いの町、真岡へ艦砲射撃を始めて攻めて来たのだ。強奪、飢餓、侮辱……。

「親父は覚悟を持って、辱めを受けるくらいなら家族で死のうと言ったんだ。炭鉱にはダイナマイトも手榴弾もあったから。俺は、いつ死ぬのかな、明日かな、明後日かなって考えていた」

最後に訪れた感情は“無”だった。

「戦争なんてするもんじゃない。惨めなもんだよ」

写真=長野陽一

一家はロシア軍に捕えられ、まさるさんが15歳になるまで飢えと寒さに耐える日々をこの地で過ごす。ロシア人からは「すぐ日本へ返す」と言われたが、待てど暮らせど帰国の日は来ない。畑でもつくればよかったが、帰れる、というロシア人の言葉を信じたのがいけなかった。

「食べるものがなくて、寒くて。2~3か月前から食べたり食べなかったりした後に、3日間食べないと倒れる寸前だった」

それから3年後、ようやく日本の地に辿りつけた。樺太での15年間で植え付けられたことは、自分のことは自分でやる。そして家族一丸となって支え、食べ物はみんなと分かち合う。この考えは、その後のまさるさんの人生の土台となった。

写真=長野陽一
幼少期を過ごした樺太の様子を説明するまさるさん。ロシア軍は北緯50度線を越えて侵攻してきただけでなく、中腹にある真岡という街にも海から侵攻してきた。