夢に見ないものは「本気」ではない

私自身にも、似たような経験があります。

1980年代の半ば、まだワープロが出始めのころです。当時、論文を膨大に書く必要があり、寝る直前までワープロでカタカタと論文作成を進めていました。寝る直前まで膨大な量の文章をワープロで打ち込むとどうなるか。夢の中の会話がすべて、「ワープロで打ち込んだ文字」としてやり取りされるのです。

自分の話すこと、相手の話すこと、すべてが全部、ワープロでカタカタと打ち込まれるかたちで展開されていく。非常にまどろっこしく、「夢を見るだけなのになぜこんなに苦労しなければならないのか」と思いましたが、同時に、「ああ、自分も孔子が言うような域に少しだけでも到達したのかもしれない」と嬉しくなったりもしたものです。

夢で見るようになって、初めて「本気」といえるのではないでしょうか。

福沢諭吉が実践していた知識の習得法

夜の学び、インプットの柱になるものは読書です。

読書はやはり、知識の習得法としては王道といえます。テレビやインターネットに比べてエネルギーが必要で、そのために本を読むのが苦手な人もたくさんいます。しかしこれが身につくと、知的生活の安定した基盤ができます。

たとえ、すぐに使う知識ではなくても、教養が増えていくのは面白いものです。人間として今生きていく喜びを感じることができます。

福沢諭吉は、『福翁自伝』で夜の読書のやり方についてこう言っています。枕を使わない生活をしていたというほどの読書生活です。

福沢諭吉(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

それから緒方の塾に入ってからも私は自分の身に覚えがある。夕方食事の時分にもし酒があれば酒を飲んで、初更よいにねる。一寝ひとねして目がさめるというのが、今で言えば十時か十時すぎ、それからヒョイと起きて書を読む。

夜明けまで書を読んでいて、台所のほうで塾の飯炊めしたきがコトコト飯を炊く支度をする音が聞こえると、それを合図にまた寝る。寝てちょうど飯のでき上がったころ起きて、そのまま湯屋に行って朝湯に入って、それから塾に帰って朝飯を食べてまた書を読むというのが、たいてい緒方の塾にいる間ほとんどじょうきまりであった。

日本の名著 33 福沢諭吉』所収(中央公論社)

読書というものは、生きる土台になります。

夜は知的な読書をして過ごし、知的な土台をつくるための時間にあてたいものです。