「家裁の父」と呼ばれた多岐川幸四郎のモデル、宇田川潤四郎

ところで、三淵嘉子さんについて「家庭裁判所の母と呼ばれた」と紹介されることがありますが、この呼び方に私はちょっと違和感を抱いています。たしかに、「虎に翼」の多岐川幸四郎(滝藤賢一)のモチーフとなった初代最高裁家庭局長の宇田川潤四郎さんは「家庭裁判所の父」でした。それは宇田川さんが家庭裁判所というシステムそのものを作った人だからです。

写真提供=NHK
ドラマ「虎に翼」より、滝藤賢一演じる多岐川(右)

一方、嘉子さんは設立に携わってはいるけれど、当時は若手のため、制度設計には携わってはいません。ドラマの寅子が多岐川に振り回されていたように、猛烈な機関車のように突き進む宇田川さんをあたふたしながら手伝っていた立場でした。そう考えると“家裁を作った”という意味の「母」というのはちょっと違うのではないかと思います。

ただ、三淵さんは特に昭和40年代、たくさんの少年審判に携わったこと、審判の巧みさや人格的に慕われる人だったことから、若手の家裁職員や調査官たちから親しみを込めて、「うちのお母さん」と呼ばれるようになりました。家庭裁判所をクリエイトしたのは宇田川さん、嘉子さんはそこで母のように慕われた人ということでしょうか。

「家裁の将来が心配で、死んでも死にきれない」と言い残し死去

宇田川さんは強烈な個性の人物でした。

そんな宇田川さんとも、敵を作らず、誰とでも仲良くする三淵嘉子さんは仲が良かった。ドラマの第24週でも描かれたように、昭和45年、少年法の対象年齢引き下げが議論される中、宇田川さんは病に倒れ、見舞いにきた嘉子さんと同僚の糟谷忠男裁判官に、悲痛な声でこう言ったそうです。

「自分は少年法改正のこと、家庭裁判所の将来が心配で、死んでも死にきれない気持ちでいる。どうか、あとのことをよろしく頼む」
(清永聡『三淵嘉子と家庭裁判所』日本評論社)

その言葉は、取材当時存命だった糟谷さんに私は直接聞きました。2人は涙を流し、宇田川さんの手を握ったそうです。宇田川さんはこの10日あまり後の昭和45年8月4日、63歳で死去しました。