弟の式部丞、藤原惟規が子どものころ、漢文の勉強をはじめたとき、隣で聞いていた自分の方が見る間に上達して、弟が忘れているところも覚えていたりなどしたので父親が「残念だ。この子が男の子でなかったのは運がなかったということだな」と嘆いていたこと。さらに、中宮彰子が『白氏文集』を読めるようになりたがっていて、紫式部が人目のないときにこっそりと「新楽府」と呼ばれる二巻を教えていることが書かれている。おまけに女房仲間たちにも、もっと付き合いにくい人かと思ったら、おっとりしていて意外だったと言われているし、中宮彰子にも「あなたとはうちとけられないと思っていたけれど、人よりずっと仲良くなったわね」と言われたと書かれていて、彰子の信頼も得た。彰子は『枕草子』に書かれているような漢籍の引用で冗談を言い合うような知性を求めていたが、紫式部は、これだけの証拠を並べて、それを補う役目は自らが十分に果たせることを示している。
しかし結局のところ、漢文の素養が表立って求められていたわけではない。一条天皇をはじめとして彰子サロンへの関心をかきたてたのは、なんといっても紫式部の書いた『源氏物語』なのだった。
『源氏物語』の政治利用――次代の天皇の后となるべき次の娘を輝かせるために
『紫式部日記』の中宮彰子の敦成親王出産記事には、里邸で出産した彰子が宮中に戻るにあたって持たせるための豪華本が用意されたことが書かれている。とっておきの紙を選び出し、物語の元原稿を添えて方々に書写の依頼を出して真新しい一冊を整えるのである。
ところが自分の部屋に元原稿を隠しておいたのを、中宮のもとに控えているあいだに道長が部屋をあさってみな内侍の督のほうへやってしまった。きれいに書き直したものはみな失ってしまった、と書かれている。したがってこれは紫式部が書いた『源氏物語』の決定版をつくる作業なのである。しかしあらかじめ清書してあった分は、道長の判断で彰子の同母妹の妍子の手に渡ってしまった。妍子はのちに次代の天皇、三条天皇の妃となる人で、入内前に内侍として宮中に参っているのだった。
三条天皇(居貞親王)は、冷泉天皇の子、花山天皇の弟で、一条天皇が即位すると東宮(皇太子)についたが、彰子出生の皇子を即位させたい道長にとっては傍流の中継ぎではある。そうはいっても三条天皇の即位を見越して手を打っておかねばなるまい。寛弘七(一〇一〇)年に妍子は東宮に入内するのだが、その前の寛弘元(一〇〇四)年には内侍としてすでに宮中にいた。彰子を盛り立てたはずの『源氏物語』は、早くも次代の天皇の后となるべき次の娘を輝かせるために利用されたのである。