僕たちと接点がなければ“身構える”のは当然だ
もう少し、「受け入れる」ということについて述べてみたい。
開催するのか中止するのかで様々な議論を呼んだ東京大会。大会が終了しても、たくさんの意見があることは承知しているけれど、個人的な思いとしては、「金メダルを獲得したこと」はもちろん、それに加えて、「多くの人に注目してもらったこと」がすごく意味深い出来事だったと感じている。
近年ではパラリンピックのテレビ放送も行われているけれど、まだ歴史が浅く、実際にパラ選手たちがどのようにメダルを目指して頑張っているのか、それを実際に目にした人は少ないだろう。
しかし東京大会では、無観客とはいえ自国開催ということで、本当に多くの人から注目されることになった。それが、2008(平成20)年の北京大会からずっとパラリンピックに出場している僕なりの皮膚感覚である。
多くの人に見てもらうこと、知ってもらうことにはたくさんの利点があるのだ。
突然話は変わるけれど、「ヘイトスピーチ」や、SNS上での匿名の誹謗中傷などに代表されるように、現在は多くの差別が問題となっている。とても悲しいことだが、それもまた人間の持つ悲しい一面なのかもしれない。
僕としては、「区別はすべきだけれど、差別はすべきではない」というスタンスだ。なにも知らない未知のものに対して、人はついつい身構えてしまうものだ。
世間の人がパラ選手に対して、あるいは障がい者に対して、どのような思いを抱いているのかはわからない。でも、ほとんど交流がなかったり、接点がなかったりすれば、つい身構えてしまうのも当然のことだろう。
まずは僕たちのことを「知る」だけでいい
けれども、この東京大会のおかげで、いろいろな障がいを持った人たちがスポットライトを浴びて、未知だったものが少しずつあきらかになっていった。
これはすごく大切で、すごく必要なものだった。知らないものがあきらかになるだけで十分なのだ。その意味でも、このパラリンピックには大きな意味があったといえるだろう。
そして、これをきっかけとして、さらに交流を深めていく次のステージを目指せばいい。その際、必ずしも全肯定してもらう必要はない。当然、人の受け止め方はいろいろあるから、「なにか違うな」と違和感を覚えることもあるだろう。でも、それでいいのだ。
細かい言葉のニュアンスの話になってしまうけれど、「知る」と「受け入れる」は、意味合いこそ似ていても、実は大きな違いがある。「受け入れる」の場合は、たとえ「あまり納得できなくても認めようか」というニュアンスを感じる。でも、僕はそこまでは求めたくないし、求めてはいけないと考える。
必ずしも「受け入れる」必要はないけれど、まずは「知る」ことからはじめてほしい。僕らのことを知ってもらったうえで、結果的に障がい者との接触や交流を選ばない人がいるのは当然のことだし、仕方のないことだ。
僕は、必ずしも「受け入れてほしい」とは思っていない。そこには無理やり、僕らの言い分を他者に強いている強制感がある。けれども、「ぜひもっともっと知ってほしい」という思いは強く持っている。
受け入れなくてもいい、まずはただ「知る」だけでいい――。そこから、次の一歩がはじまるはずだと僕は考えている。
さて、今年の夏に行われるパリ大会が目前に迫ってきた。現在取り組んでいる人生初のフォーム改造ははたして吉と出るのだろうか?
東京大会に続く、大会2連覇を目指すのはもちろんだけれど、これまで同様に、本当の意味での共生社会の実現のために少しでも役に立つことができたら嬉しい。そのためにも、僕はこれからも泳ぎ続けていくつもりだ――。