天皇に愛された定子、愛されなかった彰子
寛弘5年(1008)9月11日、彰子はついに一条天皇の第二皇子、敦成親王(のちの後一条天皇)を産んだ。さらに翌寛弘6年(1009)11月25日には、敦良親王(のちのご朱雀天皇)を出産し、道長の威信を大いに高めるのに貢献した。
だが、だからといって、一条天皇の寵愛を受けるようになったとはいえない。一条天皇が彰子に接したのは、あくまでも道長を立てざるをえないという政治的な理由からだと思われる。「光る君へ」の第30回で描かれた、倫子の母としての悲しみが解消し、母としての願いが叶ったかどうかは別の問題だった。
寛弘8年(1011)5月には一条天皇は発病し、翌月には三条天皇に譲位。出家するものの32歳の若さで崩御している。
したがって、彰子が一条天皇から愛されることは、なかったのかもしれない。だが、長和元年(1012)に彰子は皇太后になり、寛仁2年(1018)には太皇太后になる。そして道長が政界から引退したのちは、天皇の生母である国母として、弟の頼通らと協力して摂関政治を支えた。
その後は伯母であった東三条院詮子と同様、女院号を賜って上東門院と称し、87歳の長寿を全うした。この時代の長寿ゆえ、子や孫に次々と先立たれながら、摂関政治の終焉まで見届けた。夫に痛いほど愛され24歳で逝った定子と、夫に愛されることはなかったが宮廷のトップで長寿を全うした彰子。それぞれに不幸であり、それぞれに幸福だったということだろうか。