芸能界でずっと活躍できたワケ

私は仕事があるから、人前に出るでしょ。そうすると、身なりもきちんとするし、緊張感のある毎日を過ごすことになる。だから、私はずっと上沼恵美子でいられるということを、このお話をいただくまではちゃんと気づいてなかった。どちらかといえば「仕事なんていつでも辞めたるわ」って本気で思っていました。だって「私、数字を出しているし、もうやりきった」って思っていましたから。

だからね、仕事を辞めたいと思ったことは、数え切れないほどあるんです。でも、辞めずに結果を出し続けた。自惚うぬぼれが強いのかもしれないですけど、はっきり言えば、負けたくない。だから勝つしかない。ずっとそう思ってやってきました。勝つことが仕事だと思っていたところもありますね。

中学生のとき、父親にお笑いの世界に入れられて、舞台に上がったあの日から半世紀以上、この世界で生きています。最初の仕事は梅田のもともとがストリップ劇場だったくたびれた寄席小屋でした。小さくて汚い楽屋に年上の芸人さんたちと一緒になるでしょ、幼い中学生には地獄です。そのときからです、勝たなあかんって思ったのは。売れないことには、ここから抜け出せないわけです。がむしゃらでした。

ありがたいことに、ガーッて人気が出まして、漫才界の白雪姫なんて言われたりした絶頂期に一度は仕事を辞めてますからね、私。22歳のときです。それがさっき話に出た主人との結婚です。覇気があって、かっこよかったんですけどねぇ、かつての主人は。あぁ、仕事しないと、あきませんわ。今日の話は、ここに尽きますね。

それで、結婚してすぐに長男を出産して、1年で復帰しました。あの頃、舞台に出るのが億劫だったり、プレッシャーがきついなぁって感じたりもしていたんですよ。でも、やっぱり仕事がしたかったんですね。

目に見える結果を出すということが好きだったんですよ。チケットが何分で完売したとか、視聴率がなんぼだったとか、聞くのが楽しいわけです。

ずっと勝ってきたってことは、私にとってはイコール仕事をしてきたってことになるわけです。レギュラー番組がスタートする。39歳で紅白歌合戦の司会をやらせていただく、しかも2年連続で。冠の番組も始まる。有頂天になりますよね。

私ね、復帰してからは事務所には所属しないで個人でやっていました。連絡先の電話番号は自宅の番号だったんです。マネジャーもいなくて、電話がかかってくると「はい、上沼です」って私が出るわけです。声色を変えて事務員のふりをして、「少々、お待ちください」とか言ったりしてね。おかしいでしょ。それでも仕事がどんどん舞い込んできた。自分で仕事をとって、自分で仕事を仕切って、出る番組、出る番組で視聴率をとるわけです。