それでも母は納得しない様子で…

そこでおれは、わざとお湯をバシャバシャひっかきまわしながら、さりげなく、

「別につらいことなんて、なんにもないよ。」

と言ったが、母はそれだけではまだ納得しない。

「でもな、西口の秋さんなんか、この冬入営したんだけど、そりゃつらいんだって、ぶん殴られ通しで、……せんだっても、おしげさんが面会にいったら、涙をこぼしていたっていうよ。」

「だってそりゃ陸軍の話だろう。」と、おれはつとめて陽気な声で言った。「陸軍のこたあどうか知らないけど、海軍にかぎっちゃそんなこたあないよ。それに海の上だろう。いろいろ面白いこともあるし、みんな結構たのしくやってるよ。」

「だけど、いくさのときなんか、ずいぶんおっかない目にもあうずらに……。」

おれは大げさに首をふって、

「なに、娑婆で思ってるほどのこたあないさ、実際は。……それに今度おれが乗った播磨[武蔵をモデルとした架空の艦]ってのは、七万トンもあるすごくでっかい戦艦なんだ。世界一の不沈艦ていわれているんだぜ。」

「ふちんかん?」

「うん、絶対沈まない艦だっていう意味さ。大きさは、そうだな、ざっとうらの大助山ぐらいあるかな、それだもの、心配することなんて、ちっともないよ。」

「そうかい、そんならいいけど……。」

青あざを見られるわけにはいかなかった

母はそれでいくらか安心したように肩の力をぬいて、笑ってうなずいた。おれの出まかせは功を奏したのである。すると母は、こんどは流し台の前に立って、おれの背中を流してやるといってきかない。これには、さすがのおれもぎくっとした。

流し台の上には、四十燭の裸の電球がぶらさがっている。その光の下で、母のほうに背中をむけたら、同時に尻の土産もみせなくちゃならない。そこには、ゆうべの殴られたあとが、青いあざになって、れきぜんと残っているじゃないか。

渡辺清『海の城 海軍少年兵の手記』(角川新書)

もしそれを母が見たら何と思うか。きっと、「おまえ、ここんとこはどうしたずら……。」と聞くにきまっている。そう聞かれたら、おれにもうまく言いのがれる自信はない。いままでのことも、たちまちばれてしまうだろう。そこでおれは、とっさの思いつきで、沈んでいた桶の中から立ち上がって、わざと手拭いで股ぐらをかくして見せながら、

「いいよ、いいよ、おっ母ちゃん、おれだってもう年ごろだからよ。」

と言ったら、さすがの母も間がわるそうに顔を赤くして出ていってしまった。

「じゃ、ゆっくりはいんなよ……。」

関連記事
なぜ広島・長崎に「人類史上最悪の兵器」が落とされたのか…「降伏しない日本が悪い」というアメリカの詭弁
プーチンに「北方領土を返してほしい」と言ってもムダ…駐日ウクライナ大使が指摘するロシア外交の手口
1年間汁ばかりをすすり33歳で死亡…朝ドラで花岡のモデルになった山口良忠判事の壮絶な栄養失調死
明治時代の日本人なら全員知っていた…日本初の紙幣に描かれた人物「神功皇后」を日本人が忘れ去った理由
だから中国は尖閣諸島に手を出せない…海上保安庁が「領海警備」「海難救助」以外にやっている知られざる仕事