内閣府の「もはや昭和ではない」がスベった理由

事実、内閣府の「男女共同参画白書」は、2年前に「もはや昭和ではない」と(高らかに?)宣言しているが、そのフレーズはほとんど広まっていない。もう「昭和」は過ぎ去ったのは当たり前だからであり、「昭和」が特定の何かを指していないからである。古い、遅れている、変わらない、そんな時代遅れ感と、少しの懐かしさを醸し出す。それが「昭和」なのである。

翻って「令和」もまた、プラスもマイナスも、どちらの印象もない。「今は令和だから」という表現は、単純に「今のご時世」の言い換えにとどまる。「令和」の5年間にも、新型コロナウイルス感染症の拡大をはじめとして、いろいろな出来事があったのに、時代の色は見えないし、ポジティブにもネガティブにも、なっていない。それぐらい、元号は無味無臭なのではないか。

他方で「令和」という元号は、ほとんど批判されていない。これがタブー化である。

新元号「令和」を発表する菅義偉官房長官 ※肩書は当時(写真=内閣官房内閣広報室/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

大炎上を招いた「令和」への批判

歴史学者の本郷和人氏は、「令和」が発表された、2019年4月1日の翌日、テレビ朝日の「羽鳥慎一モーニングショー」で、次のように述べ、大炎上した

「『令』は上から下に何か命令をするときに使う字。安倍首相は、国民一人ひとりが自発的に活躍していこうという想いを込めたとおっしゃるが、その趣旨にはそぐわないのではないか」

私ごとながら本郷氏は、私の博士論文の審査に至るまで指導を受けた先生であり、その見解にも頷くところが多いものの、ここでは、それについて触れるのが本題ではない。「令和」への批判は、本郷氏を除いては、ほとんど見られないのではないか。批判のなさが、この元号を特徴づけているのではないか。この点を考えたいのである。

たとえば「平成」については、作家の丸谷才一氏が、2004年(平成16年)に朝日新聞のコラム(「元号そして改元」)で「この数十年間で最悪の名づけは平成という年号だった。不景気、大地震、戦争とろくなことがないのはこのせいかも、と思いたくなる」と痛罵している。