織機からオートバイ、自動車へと業種転換してきた

道雄は織機が長持ちする製品であることから事業の多角化、業容転換を思案。当時(1930年代中盤)は国内で自動車産業が勃興し、政府が産業振興策に乗り出していたことから自動車製造にチャレンジするが、軍需品増産のため、その夢を諦めざるを得なかった(1937年にトヨタ自動車工業が設立されている)。

戦後、同郷の本田宗一郎が国産初のオートバイ製造に成功。浜松では本田に続けとばかり、30社余りが二輪車製造に参入した。スズキも1952年に進出し、道雄の婿養子・鈴木俊三が開発を指揮した。道雄は浜松高等工業学校(静岡大学工学部の前身)の卒業生名簿を入手して、在学中の成績と照らし合わせ、鈴木俊三を長女の婿養子に選んだという。俊三は道雄の期待に応えて、自動二輪(モーターバイク)製造に成功。業界は飽和状態となり、淘汰の波が押し寄せたが、1960年代末には4社体制(スズキ、HONDA、ヤマハ、川崎重工業)に落ち着き、スズキはその一角に生き残ることができた。

それと併行して、道雄は次女の婿養子・鈴木三郎をリーダーとする社長直轄の四輪車開発室を設置、自動四輪車(つまり自動車)の研究を開始した。これに鈴木俊三が経営的な観点から反対したが、道雄はこれを押し切って、1954年1月に第一号試作機を発表し、翌1955年10月に軽四輪車「スズライト」販売にこぎ着けた。

スズキの婿養子戦略は1本釣りのヘッドハンティング?

道雄には3人の娘がおり、みんな婿養子をとった。1957年、道雄は長女の婿・鈴木俊三に2代目社長の座を譲り、1973年には三女の婿・鈴木実治郎が3代目社長を継いでいる。

1973年といえば、オイル・ショックがはじまった年である。1950年代中盤から日本は高度経済成長の波に乗り、急成長を遂げてきたが、オイル・ショックを機に低成長時代に突入する。スズキも1974年に経営危機に陥り、同時期の排ガス規制の厳格化に対して新型エンジン製造にチャレンジするが失敗してしまう。

1977年には6月に2代目社長・鈴木俊三が死去。10月に創業者・鈴木道雄が病に倒れ、11月には社長・鈴木実治郎が脳梗塞で倒れる。そこで、鈴木俊三の婿養子・鈴木修が4代目社長に選ばれた。

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