卒業時には法学部総代に、教育機会は平等であるべきだと実感
大学で中心となっていたのは、やはり男子学生でした。人数の少ない女子学生は、男子学生の勉学の場をお借りしているような雰囲気だったとも、嘉子は後に語っています。
しかし、嘉子が総代を務めたように、成績については女子学生は男子学生に全くひけをとりませんでした(明大女子部の第1回卒業生が、編入して明大法学部を卒業したのは1935年のことですが、この時は立石芳枝・高窪静江の女性2名が成績上位者3名の中に入っていたようです)。男女のあいだには気持ちの壁があったにせよ、明大は女子学生にとって平等を体感できる場所でした。
後に嘉子は、教育における差別こそ戦前の男女差別の根幹であり、人間の平等にとって教育の機会均等こそが出発点であると述べていましたが、明大はこの問題に正面から向き合った、まさしく「パイオニア」の学校の一つであったのです。
弁護士試補時代は同世代の半額以下の月給で働く
1938年(昭和13)3月に明大法学部を卒業した嘉子は、同年に高等試験司法科を受験し、田中(結婚後、中田)正子、久米愛とともに女性で初めて合格しました。23歳になっていました。
高等試験司法科に合格すると、弁護士試補としての1年半の修習が待っていました。嘉子は第二東京弁護士会に配属されましたが(弁護士会というのは、弁護士法に基づき、地方裁判所の管轄区域ごとに一つ設置される団体ですが、東京だけ例外的に複数の弁護士会があります。強制加入団体で、弁護士は必ず所属しなくてはいけません)、当時の試補は無給で、修習のために弁護士会に対して国から交付される経費の一部を、手当としてもらえる仕組みになっていました。
とはいえそれはかなり安く、当時の私立大学出身者の初任給が月45円くらいのこの時代に、嘉子が受け取っていた月の手当は20円程度でした。戦前は弁護士の地位が裁判官・検察官と比べて低く、このようなところにも露骨な差が設けられていました。