小林薫が演じる穂高のモデルになった教授が女子部を熱心に指導

入学した頃には50人ほどいた同級生は、結婚などで退学する者も多く、卒業の頃には20人程度にまで減ってしまいました。小さな学校でしたが(明大女子部法科の入学者数は徐々に減少し、嘉子が卒業して明大法学部に通い出した頃には、20人強まで落ち込んで廃止論も起こりますが、その後回復していきます)、それでも、年齢の幅や思想の幅も広く、多様性に富んだその環境は、嘉子に大きなプラスの影響を与えました。また、穂積重遠などの教授たちが、とても熱心に力を入れて講義を展開していたことも、大きな刺激になっていました。

後に嘉子は、明大女子部を引き継いだ明治大学短期大学の創立50周年記念講演に出席し、女性が大学で法律や経済を学ぶこと自体が白い目で見られていた時代であったので、女子部の学生たちはとてもエリート意識などを持てなかったこと、しかし、自分に力をつけて人間らしく生きていこうという気持ちが強かったことなどを語っています。

人間であるということ、人間として生きるということ。嘉子の人生を貫くこの意識は、青春時代に形成されていったのだと思われます。

1929年の明治大学女子部開校式、『明治大学百年史』 第二巻 史料編II、1988年(写真=明治大学百年史編纂委員会/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

男女共学となった法学部に進み、成績で男子を圧倒する

1935年(昭和10)3月、明治大学専門部女子部を卒業した20歳の嘉子は、希望通り明治大学法学部に編入しました。明大法学部に進んでも嘉子は成績優秀で、1938年3月に卒業する際には法学部の総代となっています。

試験の時には、周囲の男子学生にカンニングをお願いされることもあったということです。優秀でありながら、明るく穏やかで少しいたずら好きの嘉子には、もしかしたらずるいお願いもしやすかったのかもしれません(正義感の強い嘉子は、もちろんそのお願いを受けなかっただろうと思います)。

学生たちにとって、学校という場で異性と机を並べるのは、小学校を卒業して以来のことでした。おそらくお互いに関心はあったでしょうが、話しかける勇気がある人はほどんどいなく、女子学生たちは教室の前の方に集団で席を取って、授業を受けていました。授業が終わっても、自然と女子だけで行動するようなところがあったと、嘉子自身も振り返っています。