私は母が大好きで、そして大嫌いでもあった
それと同時に、私は焦っていた。これまで見て見ぬふりをしていた母の老い。しかし、母は年々老いてきている。そして、大学を卒業してから東京に住んでいる私。
たった一人のきょうだいである弟も家を出て、責任ある仕事に就いている。何かあったら、弟もおいそれとは仕事をほっぽり出せないだろう。母は宮崎のあの家にいる。もし父が亡くなったら、母はどうなるのだろう。
母はまだ60代で、血圧の薬を常用しているものの身体的に元気ではある。だからこそ、絶妙なバランスの上に、私たちの関係は成り立っている。しかし、今後親が弱ってきたら、私は老いた母を十字架のように背負って、人生を生きていかなければならないのだろうか。
重い、重すぎる――。このときも、まだ私は亡霊のような母の呪縛に苦しめられ、右往左往していた。死ぬほど欲しかった母の愛。いくら求めても足りない母からの承認――。複雑怪奇に絡み合った母と私。絶対にほどけないと思っていた因果。
確かに私は母が大好きで、そして大嫌いでもあった。私はそんな感情をジェットコースターのように行ったりきたりしている。そもそも私はこの歳になっても、母に認めてもらいたいと思っているではないか。幾度となく自問自答する日々が続いた。
何歳になっても、母に認めてもらいたい私が、確かにずっとここにいる。その半面、母から逃れたいという相反する強烈な思いもある。ぐちゃぐちゃに入り乱れた母への感情。それが、私自身をとてつもなく苦しめている。
「子どもが親の面倒を見るべき」という旧態依然の血縁主義
矛盾だらけの私は、そんな母親への愛憎を抱えたまま、老いゆく母親の介護をしなければならないかもしれない、恐ろしい現実に耐えられるのだろうか。
何度も何度も、母によって傷ついてきた私たち。生きづらさを抱えてきた私たち。
そんな私たちは、死ぬまで苦しめられるのだろうか。苦しめられ続けなければならないのだろうか。
いやもう、自由になってもいいのではないか。最後ぐらいは、自由になりたい。命が尽きるその前に、やっぱり私は母と決別しなければならない。母の承認の奴隷になるのは、もうやめよう。
そのためには母から徹底的に離れることだ。社会において母から「逃れる」ために、「子どもが親の面倒を見なくていい」という選択肢を現実にかたちにしていくことだ。そんな思いに共感し、手を取り合える仲間たちを草の根的に増やしていくことだ。
私が母から激しい虐待を受けていた遠い昔――。あれから月日は流れた。
日本の状況を振り返ってみると、日本の家族はさらに形骸化して、荒廃したといえる。しかし、血縁主義は根強く残り、そこに多くの人たちが苦しめられている。それは私が取材でつかんだ、れっきとした事実だ。時代は、そして私自身、家族に代わって引き受けてくれる何かを切実に、喉から手が出るほどに求めている。
親から逃れたくても、受け皿がないのだ。笑っちゃうほどに、どこにもないのだ。なぜなら、「子どもが親の面倒を見るべき」という旧態依然の血縁主義の社会システムが、日本にはびこっているからだ。
そして、それはけっして遠くない未来に迫りくる、私自身の重大な危機なのである。