感情を抑えつけたスポーツ観戦は味気ない
一切のブーイングや野次をなくしたスポーツ観戦を想像すれば、なんとも味気ない。まるで腫れ物に触るようにソフトで、無理矢理に感情を抑えつけた生ぬるい応援では、選手と観客は喜怒哀楽を共有できないだろう。そうなれば「ハレ」としてのスポーツの価値が揺さぶられ、その存在意味が雲散霧消しかねない。
あれもだめ、これもだめと、禁止事項が増えれば増えるほど息苦しくなるのはいわずもがなである。物価高騰や政治不信、経済的困窮など、ただでさえ息苦しさが横溢するいまの社会で、趣味や息抜きとしてのスポーツ観戦までそうなるのは避けたい。スポーツが創り出す祝祭的空間は、生活世界での鬱屈を幾許か発散するためにある。
リスペクトにユーモアを携えたブーイングや野次は、「観る者」と「する者」との交流を促すスパイスとなる。むやみやたらに時間稼ぎをするようなスポーツパーソンシップに反するプレーや、大差がついたときにありがちな気の抜けたプレーには、容赦なくブーイングを浴びせたっていい。不甲斐ないプレーを一喝する意味での野次もまたそうだ。
言葉遣いに心を砕きつつ、自由にブーイングや野次を浴びせられる雰囲気作りを目指した先に、健全なスポーツの姿が出来する。
「子供に聞かせられるか」が一つの指標
とはいえ、どこまでが適切かどうかのボーダーラインとなるリスペクトは、きわめて主観的で曖昧である。一言でユーモアといっても、それを発揮するのはなかなか難しい。リスペクトを保ち、ユーモアを発揮するためには、その場にいる子供が顔をしかめたり、不快にならないような言動を目指せばいいのではないか。子供に聞かせてもよいかどうかをひとつの指標にすれば、言葉遣いはマイルドになるはずだからだ。
スタジアムを後にした道中で、娘は「また観に来たい!」と口にした。観戦後、数日経っても「またラグビーを観に行きたい」と言っている。5歳の子供をも魅了するスポーツの祝祭性を損なわないためにも、観戦に興じる大人たちは熱狂に流されることなく節度ある応援を心がけなければならないと私は思う。