社会人5年目で訪れた転機

1974年、佐田さんは曾祖父の時代から続くスーツメーカーの長男として生まれた。幼いころから祖父の膝の上でその教えを受けて育った。戦争で満州へ渡り、命からがら帰国した祖父の教えは2つ、「思い立ったが吉日」そして「迷ったら茨の道をゆけ」。

小学校6年生になった1986年、祖父が勇退し、婿養子である父が経営を引き継いだ。父の久仁雄さんの代では百貨店「そごう」からの受注を開始し、会社は大きく売り上げを伸ばした。

写真提供=佐田社長
祖父で2代目社長の茂司さん(左)と佐田さん。小さい時から祖父が大好きだった

父はよく仕事現場に連れて行ってくれた。大勢の社員を前に演説する父の姿は心に強烈に焼きつけられ、いつか父のようになりたいと願った。しかし、佐田さんには2人の弟がいる。父は3人のうち誰に跡目を継がせるかを明言せず、3人を競わせるように焚きつけた。

「父に後継者として選ばれたい一心でしたよ。長男でしたからね。父に振り向いてほしくて、父の大好きな司馬遼太郎の本を読破しましたし、父と同じ大学にも進学しました」

2浪の末に一橋大学経済学部に進学し、父と同じスキー部に入部した。1999年、大学を卒業した佐田さんは、大手繊維メーカー「東レ」に就職する。家業と同じ業界に就職したのは、父への意思表明だった。

「東レで十数年修行を積んで、実力をつけてから家業を継ぐつもりだったんです」

ところが、入社5年目の2003年、父から一本の電話を受ける。

「会社が大変だから、帰ってきてほしい。お前が帰ってきてくれないと、会社は倒産する」

最初の仕事は連帯保証人になることだった…

「会社が大変だろうなということは、薄々感づいていました。売り上げの5割以上を占めていたそごうが倒産しましたからね。うちも連鎖倒産するんじゃないかって」

百貨店業界に逆風が吹いた時代だった。2000年2月長崎屋、同年7月にそごう、翌年9月にはマイカルが、立て続けに会社更生法や民事再生法の適用を申請した。特に最大手だったそごうの「倒産」ニュースは大きく報じられ、当然佐田さんの耳にも届いていた。

撮影=プレジデントオンライン編集部
会社員生活は突然終わった。本当はもっと修行を積んで家業を継ぐつもりだった

しかし、当時東レもバブル崩壊の影響から抜け出せず、毎晩終電で帰るほどの激務が続いていた。同じ家に住みながらも、親子で家業について話ができる状況にはなかったのだ。

「父はよく考えてから決めろと言いましたが、考えるまでもなく、私の気持ちは決まっていました。会社が大変なときだからこそ、帰るんです。そのために私は生きてきたんですから」

父と子が、力を合わせて会社を立て直す。その使命感に武者震いした。

しかし、佐田さんを待っていた仕事は、無数の借用書に連帯保証人の判を押すことだった。