条件付きの愛しか与えられなかった
考えてみれば、私はいつだって中途半端だった。
いろいろやった習い事も、どれ一つとして秀でたものはない。飛び抜けてスポーツの才能があるわけでもないし、習字を習っても一度として賞を取ることもなかった。それどころか勉強の世界では、どうやっても太刀打ちできないクラスメイトがうようよいることを思い知らされていた。
だけど文章の世界は違う。これは、私だけに与えられた才能なのだ。私の家の居間には見る見る間に、ピカピカの盾が並び、賞状が増え、額縁に入れても飾る場所がないほどになった。私が賞を取るたび、母は祖父母のみならず、ご近所のハイソなママ友たちに、私が「自慢の娘」であることを触れ回るようになっていった。
じつは、ときを同じくして弟も作文にチャレンジしたことがあった。しかし、その結果は無残なものだった。弟の作文は箸にも棒にもかからなかったのだ。同じきょうだいでも、弟は文章の才能はまったくなかった。そもそも、母を喜ばせようというモチベーションがないので、やる気がないのだ。私のようにがんばらなくても、弟は母から無条件に愛される存在だった。そう、生まれたときから――。
男の子というだけで無条件に愛される弟。弟と違って、私には条件付きの愛しか与えられなかった。だから私は、死に物狂いで、母の愛を勝ち取るしかなかった。だから一日一日が、私にとっては生死を懸けたサバイバルそのものだった。
もっと母に褒められたい
考えてみれば、幼稚園のとき、私は母の身体的虐待から生き延びることに精いっぱいだった。少しずつ体が大きくなったこともあり、命にかかわるような虐待は減っていった。それでも、私が生き延びる努力をしなければならない状況は何も変わらなかった。
私は必死だった。母にもっともっと褒められたい。がんばったね。偉いねと、頭を撫でてもらいたい、抱きしめてもらいたい。その一心でとにかく作文を書き、いろいろな賞に応募しまくった。書き続けることは子どもの私にとって、最後の命綱だったのだ。
私は、確かに普通の人よりも少しだけ文章の才能があったと思う。しかし、それは飛び抜けた才能ではなかった。だからこそ、そこには並々ならぬ努力が必要でもあった。
何百、何千の応募を勝ち抜き、母の寵愛を得るのは、けっして簡単ではないのだ。どれだけ時間をかけて書いた文章でも、あっさりと落選してしまっては意味がない。
打率は5割だった。しかも、小学生向けの作文コンクールは頻繁に開催されているわけではない。私は母の関心を、つねにつなぎ留めておかなければならないのだ。
私は焦っていた。