『信長公記』には斯波義銀が信長を裏切ったと記されている

この記述は、明らかに桶狭間合戦に絡む内容である。

ここにある尾張河内(海西郡)の服部友定(友貞)は、桶狭間合戦のときに軍船を千艘ばかり動員して、大高城まで迫った。ところが義元が討たれたので、作戦を中断して撤退した。

しかもここに尾張守護・斯波義銀が信長を裏切っていたことが明記されている。事態を知った信長は、やむなく守護を追放した。

事件の背景は17世紀に編纂へんさんされた尾張藩の地誌『張州府志ちょうしゅうふし』巻第10にも、「義銀与(と)今川義元協心欲」と、義銀が義元に通じたことが伝えられている。

ここで、牛一の記述の揺れにひとつの答えを導き出せる。現存する写本では省略されているが、軍議の上座にはこの義銀がいたのだ。

義銀は、服部友貞、吉良義昭(または義安)、石橋忠義ら尾張の有力者と共謀して、信長を義元に捧げる贄にするつもりであった。信長を嫌ってというより、義元を恐れてのことだろう。

桶狭間前夜の軍議には斯波義銀がいたのではないか

義元がこのまま攻めてきたとして、信長に勝ち目があるとは思えない。義元は駿河・遠江・三河の軍勢を連れており、甲斐武田氏の援軍もいた。しかも美濃からは一向一揆勢も参戦する予定であった(乃至政彦『謙信×信長』PHP新書、2023)。

もし統治の実権を託す信長が負けたら、尾張守護たる自分も殺害されることだろう。そう考えていたところへ義元から甘い言葉をかけられたら、黙って従うのも無理はない。

義銀の家老たちは、清洲城内で信長を殺害して、その首を義元に捧げるつもりでいたと思われる。だから、「家老衆」は野戦を望む信長に、野戦などしないで清洲城に籠るほうが得策だと反論したのだ。

狩野元秀「織田信長像」(東京大学史料編纂所所蔵)を改変(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons

そしてこの「家老衆」とは、信長ではなく、義銀の家老衆なのであろう。

なぜ、こんな重大事を省略しているのか。

それは太田牛一の旧暦に原因がある。牛一は「生国尾張国、武衛様臣下」(太田家本『信長記』巻一奥書)と伝わるように、もともと武衛──守護斯波氏──の家臣であった。

牛一は、いつからか信長の親衛隊長にあたる「六人衆」に抜擢されているが、おそらく義銀の裏切りを、桶狭間の前後頃、信長に報告した功績で信任を受けのだろう。

このため、牛一は旧主たる義銀に後ろめたい気持ちもあり、その具体的動向をかき消したのだ。