人生の“苦”を取り除くシンプルな思考法
ネガティブな感情を“苦”と言います。仏教以前のインド哲学において、苦の定義は「自分の都合通りにならないこと」で、私たちは自分の都合通りにならないことに眉をひそめたり、怒ったりします。
この厄介な苦を取り除いたり、少なくしたりする方法は古来2つ。1つは、努力して都合通りにしてしまう。自分の努力で叶う願いならこの方法が有効です。
もう1つは、自分の努力だけではどうにもならないケースで、この場合は自分の都合を諦めるか少なくするしかありません。人類はこの2つの方法で“苦”を“楽”に変えてきたと申し上げても過言ではないでしょう。
これを応用すれば、自分の都合通りに相手の考えや行動を変えたいときの対応もスムーズになります。あなたの努力で相手を変えられそうならやってみる価値はあります。
しかし、自分の努力では相手は変わらないと納得したら、「相手を変えたい」という自分の都合を引っ込めて、「なるようになる」「仕方がない」「次の機会を待とう」と、自分の考えを変えればいいのです。この方法で楽になれることは意外と多いのです。
「義理人情」を気にしすぎる人たちへ
友人の尼僧がオリジナルの仏教音楽CDを作って、お世話になった方々に贈呈したことがありました。私はいただいたものとは別に購入して、仲間にプレゼントしました。
数週間後、義理を重んじる彼女は「送ったのにうんともすんとも連絡がない人がいるのです。信じられません」と何の反応も示さない人の不義理を嘆きました。
私は「あなたのやったことを“趣味の押しつけ”と受け取る人はいるでしょう。反応がないのが不満のようですが、無反応も1つの反応ですよ」と慰めにもならないことを伝えました。彼女は、そういうことかぁと天真爛漫な笑みを浮かべました。
利害関係にある人や会社からの贈答が禁止されている公務員や一部の企業はともかく、一般社会ではお世話になった方との間で、さまざまな義理人情の慣例があります。
お礼の品をあげたから他より優遇してほしいとか、もらったから優遇してあげるとかの問題ではないと思いますが、そこには人の心が見え隠れします。
ある程度の割り切り方をした多少の不義理はいたしかたないとしても、見え隠れする相手の心に、あるときは厳しく、あるときはやさしく寄り添っていたいものです。