世の中をひっくり返した「西郷どん」の特筆すべき合理性
「士気」で勝負する
プレゼンなどで、競合相手が大企業やブランド力の高い企業の場合、戦う前から「勝てるわけがない」と考えてしまう人は多いもの。
名前や肩書きに圧迫され、気力で負けてしまっているわけです。
そんなとき、歴史の勝者はどのように逆転の戦術を描いたのでしょうか?
江戸幕府という約260年続いた巨大勢力を倒し、世の中をひっくり返した維新の英傑の一人、西郷隆盛の例を見てみましょう。
西郷隆盛といえば、「西郷どん」の愛称が物語るように、温和でおおらかなイメージをもつ読者も多いかもしれません。
しかし、単に「いい人」であるだけなら、歴史を変えることなどできなかったでしょう。
戦術を操り、兵を動かすときの西郷隆盛は、徹底したリアリストでした。
兵の数や士気を見極め、現実的に彼我の戦力を見定めます。
本来の西郷は理数系に強く、物事を合理的に考える能力がありました。
島津の分家の篤姫が、藩主斉彬の養女として将軍家に輿入れした際には、西郷が花嫁道具の手配を任されるなど、数字に強い面があったのです。
彼の戦術がいかんなく発揮されたのが、1868年(慶応4年)正月に起きた「鳥羽・伏見の戦い」でした。
このとき、すでに政権を朝廷に返上したとはいえ、旧幕府の軍勢は1万5000の大軍を擁していました。
対する西郷率いる薩摩藩兵は、わずか3000です。5分の1の兵で、立ち向かわねばならない状況でした。
兵力は1万5000対3000だが、士気は勝っている
このとき、長州藩はいまだ“朝敵”の立場にあり、京へ入ることができませんでした。
薩摩藩の実権を握る島津久光などは、「これは不味い」とすでに国許に逃げ帰っていました。
もし戦いに敗れた際は、「あれは西郷と大久保が独断で引き起こしたことだ」と弁明し、久光は二人を切腹させて事態を収めようと考えていたのです。
そんな中で、西郷は冷静に逆転勝利の方策を思案していました。
西郷の見立てでは、兵数のうえでは大きな差があるものの、両軍の士気を比べれば、むしろ薩摩藩の方が数段上と見ていました。
旧幕府の兵士たちも、“薩長許すまじき”と燃えてはいましたが、開戦するのか和睦するのかを定めず、前将軍の徳川慶喜や会津藩主の松平容保、桑名藩主の松平定敬も、安全な大坂城にいて戦場には出てきていませんでした。
旧幕府軍の中途半端さを象徴していたのが、進軍中の大砲や銃でした。実弾を装填していなかったのです。
これから向かう先は京都であり、誤って流れ弾が朝廷に撃ち込まれれば一大事となります。“朝敵”とみなされたら大問題だ、とインテリの多い旧幕将たちは考えたのでした。