世の中をひっくり返した「西郷どん」の特筆すべき合理性

逆転戦術その三
「士気」で勝負する

プレゼンなどで、競合相手が大企業やブランド力の高い企業の場合、戦う前から「勝てるわけがない」と考えてしまう人は多いもの。

名前や肩書きに圧迫され、気力で負けてしまっているわけです。

そんなとき、歴史の勝者はどのように逆転の戦術を描いたのでしょうか?

江戸幕府という約260年続いた巨大勢力を倒し、世の中をひっくり返した維新の英傑の一人、西郷隆盛の例を見てみましょう。

西郷隆盛といえば、「西郷せごどん」の愛称が物語るように、温和でおおらかなイメージをもつ読者も多いかもしれません。

しかし、単に「いい人」であるだけなら、歴史を変えることなどできなかったでしょう。

戦術を操り、兵を動かすときの西郷隆盛は、徹底したリアリストでした。

兵の数や士気を見極め、現実的に彼我ひがの戦力を見定めます。

本来の西郷は理数系に強く、物事を合理的に考える能力がありました。

島津の分家の篤姫あつひめが、藩主斉彬なりあきらの養女として将軍家に輿入こしいれした際には、西郷が花嫁道具の手配を任されるなど、数字に強い面があったのです。

彼の戦術がいかんなく発揮されたのが、1868年(慶応4年)正月に起きた「鳥羽・伏見の戦い」でした。

このとき、すでに政権を朝廷に返上したとはいえ、旧幕府の軍勢は1万5000の大軍を擁していました。

対する西郷率いる薩摩藩兵は、わずか3000です。5分の1の兵で、立ち向かわねばならない状況でした。

写真=iStock.com/PhotoNetwork
※写真はイメージです

兵力は1万5000対3000だが、士気は勝っている

このとき、長州藩はいまだ“朝敵ちょうてき”の立場にあり、京へ入ることができませんでした。

薩摩藩の実権を握る島津久光などは、「これは不味い」とすでに国許に逃げ帰っていました。

もし戦いに敗れた際は、「あれは西郷と大久保が独断で引き起こしたことだ」と弁明し、久光は二人を切腹させて事態を収めようと考えていたのです。

そんな中で、西郷は冷静に逆転勝利の方策を思案していました。

西郷の見立てでは、兵数のうえでは大きな差があるものの、両軍の士気を比べれば、むしろ薩摩藩の方が数段上と見ていました。

旧幕府の兵士たちも、“薩長許すまじき”と燃えてはいましたが、開戦するのか和睦するのかを定めず、前将軍の徳川慶喜や会津藩主の松平容保かたもり桑名くわな藩主の松平定敬さだあきも、安全な大坂城にいて戦場には出てきていませんでした。

旧幕府軍の中途半端さを象徴していたのが、進軍中の大砲や銃でした。実弾を装填していなかったのです。

これから向かう先は京都であり、誤って流れ弾が朝廷に撃ち込まれれば一大事となります。“朝敵”とみなされたら大問題だ、とインテリの多い旧幕将たちは考えたのでした。