朝廷と幕府を仲立ちする立場に
だが、この時点では、福はまだ春日局ではなかった。
寛永6年(1629)、福は上洛して天皇との交渉役を務めた。その2年前から、いわゆる紫衣事件を通じて幕府と朝廷のあいだがギクシャクしていた。紫衣とは袈裟のなかでも最高位の僧にだけ与えられるもの。これを天皇が勝手に与えたのは禁中並公家中諸法度に違反するとして、幕府が紫衣を無効にした事件だった。
幕府がこうして朝廷に対する優位な立場を示したのを受け、後水尾天皇は譲位の意向を示していた。そんなときに福は上洛して、秀忠の娘である中宮和子らに贈り物をし、参内を許されて、和子から「春日局」の称号を賜った。さらには一介の乳母が天皇に拝謁して、天盃を賜ったというのである。
福の役割は、こじれていた朝廷と幕府の関係を融和させることにあったと思われるが、謀反人の娘が幕府と朝廷との関係を仲立ちする立場になったのは、すさまじいばかりの栄達である。
それも、家康が彼女の直訴を受け入れたところからはじまったなら、家康を「われらが神の君」と呼ぶにふさわしいといえるだろう。