大坂夏の陣では家康の本陣を襲い、家康は切腹を覚悟した
信繁は茶臼山に陣取り、毛利勝永隊と共に、茶臼山にある家康の本陣を急襲します。勇敢に突撃を繰り返す真田軍。家康の旗本勢は後退し、家康の馬標や旗も倒されるという混乱振り。家康の周囲にはごく少数の者しかおらず、一説によると、家康も一時は切腹を覚悟したとも言われます。何度も突撃を繰り返し、徳川軍を翻弄した真田軍ですが、家康を捕捉・打倒することはかなわず、数で優る徳川方が勢いを盛り返していきました。信繁は、徳川方の西尾仁左衛門により討たれ、49歳の生涯を閉じます。
信繁は最終決戦に際し、豊臣秀頼の出馬を望んだとされます。秀頼が出てくれば、豊臣方に士気は上がる。そして一気に家康や秀忠の陣に攻め掛かり、戦いの決着を付ける。それが信繁の戦略だったようですが、秀頼出馬は淀殿らの反対に遭い、実現せず。信繁の作戦が絶対に成功したかは分かりませんが、秀頼が出馬せずとも、真田軍らが徳川方をあそこまで蹴散らしたのだから、やって見る価値は十分あったでしょう。
秀頼が出張って、豊臣勢が一丸となって、家康の陣を襲えば、家康を討ち取れたかもしれません。信繁の奮戦は敵方をして「真田日本一の兵」(薩摩島津氏)、「真田・後藤又兵衛手柄共、古今無双次第」(細川忠興)と言わしめました。秀頼が出馬していたら、信繁の声価はさらに高まった可能性があります。
※参考文献
・平山優『真田三代』(PHP研究所)2011
・『歴史読本』編集部『ここまでわかった 大坂の陣と豊臣秀頼』(KADOKAWA)2015、
・山下久猛「第21回【大阪明星学園/心眼寺】最新の研究で明らかになった真田丸の全貌」(文春オンライン、2016年11月26日)
・濱田浩一郎『家康クライシス』(ワニブックス)2022