日本での「友人」=つき合っている仲間
たとえば、映画『ディア・ハンター』がそうです。ロシアン・ルーレットという命がけの博打で得た金をベトナム戦争の負傷帰還兵に送り続ける友人を、ロバート・デ・ニーロがベトナムまで救いに行きます。
友人は薬物中毒になっており、デ・ニーロは自分がロシアンルーレットに参加してまで、「こんなことはやめて米国に帰ろう」と訴えます。
その時、デ・ニーロは「You are my friend.」と言って説得するのです。
『普通の人々』という映画では、兄を遭難死させたのは自分ではないかと苦しむ男性に、精神科医が手を差し伸べます。
「なぜそんなに親身になってくれるんだ」といぶかる男性に、精神科医は「お前は友達だからだ」と言いました。
日本では「友達の友達は友達だ」という言葉もあったりして、「友人」には、つき合っている仲間という以上の意味はありません。
もちろん、米国で言うfriendに相当する言葉がないだけで、その人のために尽くす、裏切らない、という友情は広く存在します。
自分と無関係な面は見ないのが年配者の友情
たとえば私は今、いくつかの大学の人たちと共同研究をしています。その中にも、世代や性別を超えたfriendがいるのです。
恩師の林髞先生は、友達について、こんな的確な指摘をしました。
「『あの人はすばらしい』などと思っている時には、友達はできない。『あの人は、こういう時にはこういうことをする人だ』とわかるようになると、本当の友達ができる」
人間にはいろいろな面があります。外からはうかがい知れない欠点もあります。
思いがけない面に気づくたびに「なあんだ、あんな人か。すばらしい人だと思っていたが、そうでもないんだ」と考え、それにとらわれていたら、誰とも親しくなれません。
林先生は、そう教えられたのです。
友達を広げられるかどうかは、自分の人格が問われる問題でもあるのです。
伊藤整は、作家の横光利一の次のような逸話を書いています。
「横光利一は非常にまじめな人だった。その死の床に、遊び人として有名な作家が来て、『これからはあなたのように立派な生き方をしたい』と言った。すると横光は、『自分こそ、君がうらやましくてたまらなかった。しかし、どうしてもできなかった』と言った」
私は、人間はいろいろな面を持っているのだから、自分と関係のある面だけを見て、それ以外は見ないようにするべきだと考えています。
「友人とは、あなたについてすべてのことを知っていて、それにもかかわらずあなたを好んでいる人のことである」と、小説家のエルバート・ハバードは言っています。
しかし、私は、知りすぎると友人とつき合えなくなることがあると考えているのです。