落書きに激怒し、113人を処刑

長年、実子に恵まれなかっただけに、わが子に対する秀吉の愛情は深かった。というより、異常だった。

たとえば、淀殿が秀吉の最初の子を妊娠した天正十七年(1589)、京都の聚楽第(秀吉の邸宅)の門に貼りつけた落書きが見つかった。落書きの文言は記録に残っていないが、どうやら「淀殿の子の父親は秀吉ではない。多くの側室がいながら、これまで子供に恵まれなかったのに、急に子ができるのは怪しい」といった類いの内容だったようだ。

すると秀吉は、門番をしていた十七人の武士の落ち度を責め、彼らの鼻と耳をそぎ落としたうえではりつけに処したのである。尋常な怒りではない。

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やがて、落書きの犯人たちが大坂天満の本願寺に逃げ込んだことが判明する。秀吉は本願寺の門主・顕如に彼らの引き渡しを命じ、自分自身も大坂へ乗り込んで行った。仕方なく顕如は、関係者の尾藤道休を処刑し、その首を差し出した。

だが、それでも怒りが収まらない秀吉は、犯人をかばった僧侶数人を捕えて殺害。さらに道休が住んでいた家を町ごと焼き払い、近隣の人々を連行して六十人以上を六条河原で処刑したのである。犠牲者のなかには八十歳を超える老人や七歳に満たない子供もいた。

その後も逮捕者が続き、最終的に百十三人がこの事件で命を落とした。たかが落書きなのに完全に常軌を逸している。ひょっとしたら、淀殿の腹にいる子が本当にわが子かどうか不安があり、そこを指摘されたことで怒りが爆発したのかもしれない。

やっと生まれた男児も3歳で亡くなる

生まれた子は男児であり、鶴松(棄)と名づけられたが、このとき秀吉はすでに五十三歳だった。だから鶴松を孫のように溺愛した。翌天正十八年(1590)、小田原平定のため秀吉は遠征に出向いたが、京都に凱旋がいせんするとすぐに淀殿に手紙を出している。

そこには「鶴松は大きくなったか。身体を冷やさないようにしてやれ。近くそちらに行くので家族三人で一緒に寝よう」と記されている。鶴松が二歳の頃には踊りの師匠をつけ、英才教育をしている。

だが、この子は病弱だったようで、翌十九年正月に病にかかり、いったん回復したものの夏に再び病になった。秀吉は諸社寺に祈祷きとうさせたものの、その甲斐なく八月五日に三歳で亡くなってしまった。秀吉は悲しみのあまり、翌日、もとどり(頭のてっぺんで束ねた髪)を切ってしまった。これを見た多くの大名たちも、同じく髻を切って喪に服した。

力を落とした秀吉は、京都を離れて有馬温泉で傷心を癒やしたが、政治に対する意欲も失せたのか、関白職を豊臣秀次に譲ってしまった。