信長の背後に回った武田軍が見たもの
武田勝頼は、緒戦で早々と白兵戦を諦めた織田・徳川が、柵に隠れるばかりなので正面攻撃では決定打を与えられないと考え、山県昌景ら精鋭部将を選抜した。
そしてこれを高松山南方から左巻きに後ろへ回らせ、背面からの攻撃を準備させることにした。数千人の精鋭先衆を、別働隊に臨時編成したのである。
高松山は短期間で構築した防御陣なので、背後には柵がないと判断したのだろう。高松山前面には勝頼を始めとする諸隊が残り、激しい銃撃をもって別働隊が移動するのを支援した。別働隊は高松山南方の防備を破り、無事に背後へ回った。だがここで別働隊は思わぬものを視認することになる。
茶臼山に屹立する信長の馬印──金の唐傘──である。
「根切」作戦発動
茶臼山は制圧しやすい小山だった。これまで信長の居所を確認できていなかった先衆がここを切所と判断したのなら、信長の狙い通りであった。茶臼山へ接近する別働隊に対し、家康本陣の高松山後方と、信長本陣の茶臼山(信長本人は高松山在中)と、松平信康本陣の松尾山から一斉射撃が開始される。
これが信長のいう「根切」で、武田の先衆を続々と崩壊させた。大量の鉄炮は虐殺を加速する。短時間で大半の将士を喪失した武田先衆だったが、それでもここで後退するのは危険と判断した。
後方に逃げ込めば有海原の味方中に動揺を誘い、総崩れを招くのは必定だったからである(最後は実際にそうなった)。そうなれば織田・徳川の大軍は有海原の武田軍を、前面と側面から殲滅せしめることだろう。
武田軍が総崩れを避けるには、先衆が前面の敵陣を制圧するほかない。それまで武田右翼にあった馬場信春も、真田信綱と土屋昌続に持ち場を託して先衆に加わった。それでも根切は止まらなかった。