「俺のこと、殺しにきている」

井上と拳を交えた誰もが、絶望を味わう。元世界王者の田口良一もそうだった。

2012年5月22日、当時25歳で、日本ライトフライ級1位だった田口は、高校を卒業したばかりで19歳の井上からスパーリングのオファーを受けた。

森合正範『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』(講談社)

「アマチュアで井上尚弥という凄い選手がいると聞いたことがあったんです。でも、こっちは世界王者ともスパーリングをやっていた。実戦感覚は空いていたけど、大丈夫だろう、と思っていましたね」

開始と同時に井上が距離を詰め、猛然と襲いかかってきた。手が止まらない。しかも一発一発が重い。

「スパーリングなのに、俺のこと、殺しにきていると本気で思いました。ここで仕留めるんだ、という殺気を感じたんです」

パンチを浴びるままに、リングを転がった。試合、練習を通じて初めてのダウン。4ラウンドの予定が3ラウンドで打ち切りになった。田口はトイレに行く振りをして練習場を出た。誰もいないところでしばらく泣いていた。

「彼がプロ転向して同じ階級に来たら、俺はどうなるんだ、もう終わりだ、と思ったら『絶望』という言葉が浮かんできたんです」

世界王者になるよりも大切なこと

だが、田口の人生は絶望のままで終わったのかというと、そうではない。田口は日本王座に就くと井上を挑戦者に指名した。

所属ジムの会長、渡辺均は驚いた。スパーリングで倒されたではないか。もし闘えば圧倒的不利ではないか。しかも、田口は日本王者となり、世界ランクも上位。世界タイトルマッチに挑戦する資格を得ていた。

会長の渡辺は井上戦を避けることを促し、別の提案をした。

「おい、田口、おまえは世界タイトルマッチができるんだから、井上戦をやらずに、世界に挑戦しよう」

ボクサーは誰もが世界王座を目指している。たが、田口は首を振る。

「井上戦を避けて上に行くつもりはないです。やっぱり『逃げた』と思われたくない。逃げないし、やりますよ」