日本形ナショナリズムの始まり
特に話が盛られているのは古い時代の記述です。日本列島にもともとあったのは地方豪族による地方分権型の連合国家でした。しかし、唐からの侵略の危機にあって、「わが国は昔から一枚岩」と言わざるを得なくなった。
もし、「日本国は、実は小国家の連合体」と知られれば、ヤマト政権に不満を抱く地方豪族に外国勢力が加担し、内乱を引き起こさないとも限りません。実際、北九州の豪族が新羅と結んで反乱を起こしています(磐井の乱)。ここに、日本型ナショナリズムの始まりを見ることができます。
『古事記』と『日本書紀』の編纂を指揮したのは皇族の舎人親王ですが、この時代の最高実力者は、中臣鎌足の息子の不比等でした。鎌足は乙巳の変のあと、クーデタ成功のご褒美に天智天皇から「藤原」という新しい姓を賜ります。ただし、その時に鎌足はすでに臨終を迎えており、実際に「藤原」姓を名乗ったのは不比等からです。
蘇我氏に代表される国内の敵をすべて片づけた藤原氏が、次に外の敵に焦点を当てた事業が、日本の歴史をまとめることだったのです。