機能するようになった静電気発生装置を江戸で見世物に

先ほど筆者が源内はエレキテルを修理したのであって発明したのではないと書いた。これは決して彼の業績を貶めるためではない。その修理作業の困難さを理解する前提としてあえて確認したのである。

復元に際して源内が参考にしたのは、破損した現物と曖昧な図解、そして判読できない蘭語の文献のみだった。詳細な設計図も解説書もなければ、指導する技術者もいない。もちろん、インターネットなどなかった。その乏しい情報の中での復元作業は『解体新書』の翻訳にも匹敵する難事業だったはずである。この点はいくら賞賛してもし過ぎということはないだろう。

源内は西洋ではエレキテルが見世物に使われていることを知っていた。そこで彼も復元した器械を見世物に供することにした。

写真=郵政博物館提供
「エレキテル」(平賀家伝来)郵政博物館収蔵

集まった人々にエレキテルの端末を触らせ、ビリっと感電させる。わっと悲鳴を上げて手を離す者、ひっくり返って尻もちをつく者、驚きとざわめきが一座に広がる。このアトラクションは大人気となり、それとともに源内の名も全国に知れ渡るようになった。

もっとも見世物としては、一瞬、驚かせるだけである。一度体験すれば充分というわけで、間もなく飽きられてしまった。本来の電気治療法にも使おうとしたが、これもほとんど普及しなかった。

エレキテルを15台製作しセレブに売って生活費を稼いだ

源内は生前エレキテルを15台製作し、一部を高貴な人々に販売して暮らしの足しにしたと伝えられている。それによって窮地に陥りがちな源内の懐を少しは潤したと見られている。ただし、現存しているのは2台のみである。1台は、東京都墨田区の郵政博物館(旧逓信総合博物館)に収蔵され、国の重要文化財(歴史資料)に指定されている。もう1台は源内の地元さぬき市志度に開設された平賀源内記念館に保存されている。ただしこちらの方は、元はあったと思われる蓄電瓶が欠けている。

郵政博物館の器械を見ると、外箱には本草学者らしく植物模様の美しい塗装が施され、源内の工芸デザイナーとしての一面をうかがわせる仕上がりになっている。源内のエレキテルについては、蘭学者桂川甫周ほしゅうの弟森島中良ちゅうりょうが『紅毛雑話』の中で正確に記述し、これにより製作方法が世に広まることになった。

ほかにエレキテルの製作者としては、後述する日本電気学の父橋本宗吉そうきちや幕末の偉才佐久間象山しょうざんがいる。宗吉のものは源内のものとほぼ同じだったが、象山のものは時代が百年近く下るだけに仕組みが違っていた。一次コイルと二次コイルを備え、スイッチを開閉し、電磁誘導を起こすことによって電圧を生じさせるものだった。誘導コイル型と呼ばれているタイプで、当時はこれもエレキテルの仲間と認識されていた。