死ぬ前の秀吉は淀君に翻弄され正気を失っていたのか
さて、秀頼の生母は淀殿(茶々)ですが、秀吉は「御ふくろ(袋)さまへ」として、淀殿にも手紙を書くことがありました。年未詳12月8日付の秀吉の淀殿宛書状には「秀頼に次いで、懐かしく思っている」「6、7日のうちに参上し、積もる話をしたい」「秀頼様が冷えないようによく気を付けてください」と書いてあります。淀殿に対する「愛」や思いというものも感じられますが、秀吉はこの時も、秀頼のことで頭がいっぱいのようです。秀吉が末期に「秀頼のことを頼む」と重臣たちに繰り返し述べたことをほうふつとさせます。
ドラマなどにおいては、秀吉は淀殿に夢中になり冷静な判断ができなくなっているように描かれますが、秀吉の書状を見る限りでは(前述の書状でもそうですが)、淀殿というよりは、秀頼に夢中のように見受けられます。遺言の内容もおかしなことを言っているわけではありませんので、痴呆(認知症)が進んでいるようにも思えません。
さて、秀吉は前述のように8月18日、62歳でこの世を去ります。
辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」。
この瞬間から、秀吉が一代で築いた豊臣家の天下は崩壊に向かっていくことになります。
※主要参考文献
・桑田忠親『太閤秀吉の手紙』(角川文庫、1965)
・濱田浩一郎『家康クライシス』(ワニブックス、2022)