しかし、納得いく成果を出せず、4年で役者の道を諦め、尼崎に帰郷。失業中の職業訓練でパソコンインストラクターの資格を取り、1年ほどアルバイトをしてから、大阪のパソコン教室で働き始めた。安月給で、拘束時間も長く、上司からは「残業するのは仕事ができてへんからや」「仕事はこれが当たり前や。自分で責任持ってやりなさい」と責められる。

鬱々とした毎日を送っていたある2007年のある日、当時付き合っていた彼女が「こんなんあるよ」と教えてくれたのが、「実話怪談コンテスト【超-1】」だった。新しい書き手による「本当に起きた怖い話」を求めていて、トップ10に入る評価を得た書き手のストーリーをまとめて書籍化するという内容に、宇津呂さんの心は動いた。

筆者撮影
イベントスペース「とらのあな」。月に一度の週末、ここが怪談売買所になる。

社会人になってからも「怪奇趣味」は変わらず、書籍を買い集め、オカルト番組を録画していた。彼女がコンテストの話をしたのも、それを知っていたからだ。しかし、この時は仕事があまりにも忙しく、「とてもじゃないけど、怪談を集めて書くなんてできない」と、参加を見送った。日を経るにつれて、この決断を悔やむようになった。

「やっぱり、参加したらよかった。これはえらいことしたな……」

「実話怪談コンテスト」のために仕事を辞める

実は、宇津呂さんの彼女もオカルトファンで、このコンテストに応募していた。「こんなの書いてみたから、読んでほしい」と頼まれて原稿に目を通すと粗が目立ち、まったく怖くなくて、あれこれとダメ出しをした。それもそうだろう。数えきれないほどの怪談を見聞きしてきた宇津呂さんを、素人が満足させるのは難しい。

筆者撮影
店先に掲げられた張り紙。

ところが、彼女が応募した作品のうちいくつかは審査で高評価を得た。それを知り、「自分ならもっと面白い怪談が書けたのに……」とますます後悔を募らせた宇津呂さんは、2008年、同じコンテストが再び開催されることを知ると、「今度こそ、参加せなあかんわ」と、いきなり退職。身近な人たちから怖い話をかき集め、22本の原稿を書いて送った。

『恐怖箱 超1-怪コレクション 彼岸花』(竹書房文庫)の書影

結果は、6位。コンテスト上位10人の傑作選として出版が決まり、宇津呂さんの原稿は4話収録されることになった。傍から見れば小さな成果かもしれないが、幼い頃からずっと「怪談」を愛してきた彼にとって、野球少年が甲子園でホームランを打ったような晴れやかな気分だった。

同年9月には、傑作選が書籍『恐怖箱 超1-怪コレクション 彼岸花』(竹書房)として発売され、わずかながら印税も振り込まれた。

自分の怪談が書籍に載り、書店に並ぶ。初めて、怪談でお金を得る。これに手応えを得た宇津呂さんは同年、新たな一歩を踏み出す。

36歳で怪談師デビュー

「2007年頃から、怪談社というユニットが稲川淳二さんみたいな怪談ライブを関西で始めていました。それがすごく質が高くて面白かったので、毎月一度の公演を観に行くようになったんです。そこで、怪談師のオーディションをやるということを知りまして。怖い話ってね、人に聞かせたくなるんですよ。それまで、自分の知り合いを呼んで話して聞かせるっていうのをよくやっていたんで、『これは自分のためにやってくれるようなもんや』と思ってすぐに申し込みました」