これに対して、織田信長の理念は「天下布武」――つまり武力によって天下を平定する、ということだった。だが、武をもって平定しようとする人は、武によって倒されるのではないかと私は感じた。「あの会社を潰してやろう」「あの同僚を亡き者にしよう」と挑みかかれば、自分自身も倒れていくに違いないのだ。
一方、実りの多い「千成瓢箪」を旗印にしたのが豊臣秀吉だ。私の勝手な解釈によれば、取ってきたものを分け与えることで、人を率いるという考え方だ。しかしこの理念も、最後には取るもの(領地)がなくなったために破綻してしまう。朝鮮半島まで兵を進め、大敗を喫したことで豊臣家の命運は尽きるのである。
家康にとって最大の岐路だったのは、天下分け目の関ヶ原の合戦だ。合戦を前に、石田三成は自軍の勢力を集めるため東奔西走したという。ところが家康は、動かずに書を書いていた。
これも私なりの解釈だが、家康はこのとき、次のような書状を武将らに書き送り、次々と味方に引き入れていったのではないかと思うのだ。
すなわち――「自分たちは長い間お互いに殺戮を続けてきたが、そんなことはもうやめよう。今後は欣求浄土厭離穢土の考えに基づいて、平和な社会をつくる。勝利の暁には、あなたにこの領地を任せたい」。このようなことである。
もともと数多くの武将が秀吉への恩義を感じているなかで、あれだけの軍勢が徳川方についたのは、家康の掲げる理念に賛同する人が多かったからだ。
家康は天下を平定したのち、理念を実現するため果敢な行動を起こした。刀狩りを徹底し、御三家など親藩を街道筋に効果的に配置することで幕府の安全を期した。のちには参勤交代の制度を設けることで、反乱の起きにくい仕組みを築き上げたのである。このことが、結果として江戸時代270年間の平和な社会につながったのだ。
世に努力をする人はいくらもいる。しかし大事なことは、どのような目標を持つかということだ。人の共感を呼ぶ旗印(理念、目標)を掲げることで、より大きなことが成し遂げられる。家康の事績を学ぶことで、いかに理念が大切かを思い知らされたのである。
私自身も、次のような理念をもとに会社経営に当たろうと決意した。