いい意味で少し「ちゃらんぽらん」に育ってほしい

3つ目の問題は、「完璧主義」の弊害です。

私は長いこと完璧主義でした。専門的な論文でも一般向けの著作でも自分の書いたものにミスがあることを許せない。人からそういうミスを指摘されると落ち込む、ということを繰り返してきました。

そういう性格だと、書籍を執筆するのに非常に精神を消耗します。原稿を確認する最終段階になって、何かミスを見つけると心臓が止まりそうになります。不安になって、また原稿をもう一度読み直す。そして、それを何度も繰り返す。正直、体にも心にもよくない。そのせいで、他の創作活動に費やせるはずの機会を損失してしまいます。

さらに、どんなに注意深く原稿をチェックしても残念ながらミスは残ります。人間ですから完璧な本などつくれません。とある漫画家さんが「漫画を出すことなんて、間違い探しの本を出すようなもんだ」と発言しているのを聞いて、ずいぶん救われたのを覚えています。

ですから、最近では、あとでミスが見つかっても対処できる方法を探ることにしています(もちろん「できるだけいい本をつくろう」という意識は忘れていません)。このように自分が完璧主義で苦労したことから、娘にはいい意味で少し「ちゃらんぽらん」に育ってほしいと思ったのです。

4つ目の理由は、最近ことに他人のミスに対して不寛容な世の中になっている気がするのです。

「100点で当たり前」という考えを自分にも他人にも押しつけるから、他人が100点でない場合、それを許せない。それで世の中ギスギスしているのではないか。もう少し他人のミスに寛容な世の中になったほうがよいのではないか。

川原繁人『なぜ、おかしの名前はなぜパピプペポが多いのか? 言語学者、小学生の質問に本気で答える』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)

ちなみに、「世の中」などという大きな視点で考えなくても、個人個人のレベルでも、他人に100点を求めない利点がありそうです。

というのも、他人のミスを許さず怒り続けると自分の幸福度が下がり、逆に許すと幸福度が上がることは、現代心理学の実験によっても実証されているようですから。

さて、これまで娘の発言に対して私が感じた違和感の理由を論じてきました。

まとめますと、①人間の学びにとって大事なことは、他人がつくった正解を覚えることではない、②短期的な成果を求めすぎると、より大事なものを見失う可能性がある、③完璧主義は、生きづらくなり、④他人のミスも許せなくなる、ということでした。

ただ、だからと言って、私は小学校教育からテストを廃止しろ、などと言っているわけではありません。子どもの時に、正解のある問題に取り組ませることも必要だと思います。算数や国語などの基礎は、正解のない問題について考えるための道具になりますからね。

しかし、正解がある問題に取り組ませるにしても100点を目指させるのはよくないと思うのです。

どういうことか。