経産婦を側室にした家康だが、実はロリコンだった!?

家康は子作りに努力しなかった。それは、嫡男の信康がいれば、徳川家は安泰だというくらいに思っていたのかもしれません。若い頃に立て続けに子どもが生まれているわけですから、一応、自分には子どもを作る能力はちゃんとある。しかもすぐに出来のいい嫡男にも恵まれた。だったらそこまでがつついて子作りに励まなくてもいいだろう、というのが実際のところだったのかもしれません。

長男・信康は、織田信長との関係で、謀反を疑われ、自害しなければならなくなりました。その途端に、家康は子作りを始めています。それまで子作りをしなかったのは、それだけ信康を信頼していたということになるのかもしれません。

さて、後継と考えた嫡男が自害したため、急ぎ、子どもが必要になった家康は、自分の相手に確実に子どもを産んでくれる女性を選びます。確実にとなると、つまりそれは一度、子どもを産んだことがある女性、すなわち子持ちの未亡人です。こうした女性を側室に迎えて、すぐに家康は子どもをもうけたのです。なんだか計算づくで、色気も何もあったものではありませんが、堅実な家康ならではのエピソードと言えるでしょう。

喜多川歌麿作の、醍醐の花見を題材にした浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

その後、天下取りに邁進したのちに、徳川家が一応の安泰をみると、次第に家康は若い女性を側室として置くようになりました。となると、ロリコンこそが、家康の本性なのかもしれません。

豊臣秀吉の性愛――美少年には見向きもしない女好き

豊臣秀吉の場合、男色については、全くといって浮いた話はありません。むしろ、ありすぎるくらいにあるのは、徹底的な女好きのエピソードです。

たとえば、こんな逸話があります。「あれだけ女好きで色好みな殿下であるから、きっと美少年も好きに違いない」と噂した豊臣家の近臣たちが、ある日、大変に美しい美少年を用意して、広間で秀吉と二人っきりにさせたことがありました。そして、殿下がどんな行為に及ぶか、物陰からそっと覗き見ていたところ、秀吉はおもむろに少年に近づいて、肩を抱きかかえ、何事か声をかけている。近臣たちは「お、口説き始めたぞ」と思って、何が始まるのかワクワクしていると、そのまま少年から離れて、広間から出て行ってしまいました。

当てが外れたかなと近臣たちが物陰から出てきて、少年に「お主は殿下からどんな言葉をかけられたのだ」と聞くと、「殿下は私に、『お前に姉はいるか』とお尋ねになりました」と言ったそうです。