幸一は自分の決意を社内外に宣言した
昭和21年(1946)7月、幸一は模造紙に「和江商事設立趣意書」なるものを筆で書いて自宅の玄関に貼りだした。彼は面白い男で、自分の決意を社内外に宣言するということを生涯好んだ。
“道義地に落ち、人情紙の如く”とは、幸一が帰還したその日に遭遇した、派手な化粧をした女性が米兵と抱き合っていた護国神社の光景であり、法律などおかまいなしに本音がぶつかり合っていた闇市であり、何より戦地で命がけで戦ってきた者への冷遇に対する怒りであった。
敢えて復員者を集めて商売を始めたことを明らかにし、同時に、婦人洋装装身具卸商として女性のために働くことを高らかに宣言したのである。
さらに儲けるためには、優秀な社員が必要
彼は模造真珠のネックレス以外にも、竹ボタン、竹に刺繍張りのブローチ、金唐草革財布、ハンドバッグ、キセルなどを山と担ぎ、化粧品や装身具の小売店に飛び込んで売り歩いた。
規制品以外を扱っていたから闇とは言えないが、こうしたものを男子一生の仕事にしようと考える者は少ない。
戦友たちも復員後の生活に困っていたから、幸一の呼び掛けにすがるような思いで集まってきてくれたが、しょせん腰掛けとしか思っていない。そのうちほかに仕事を見つけ、一人減り二人減りしていった。
さらに儲けるためには、優秀な社員が必要だ。
そこで目をつけたのが妹富佐子の夫である義弟の木本寛治である。当時、幸一の母校でもある滋賀県立八幡商業学校(現在の八幡商業高等学校、略称・八商)の学生部長をしていた彼を熱心に誘った。
だが木本は、
「いずれは行きます」
と繰り返すだけで、なかなか首を縦に振らない。
それはそうだろう。身内だけに当時の和江商事の台所が火の車であることは熟知している。戦前、大阪の商社に勤めていた木本であればなおのこと、一生を託して入社するのは難しかったのだ。