婚活→妊活と世間総出で煽り上げる始末

少子化を解決するためには、まずは、結婚する男女を増やすことが一丁目一番地の政策となっていきます(この指針こそ、日本的でもあるのですが。欧米はシングルファザー、マザーの出産が非常に多いのですから)。そこで、結婚に向けた活動を「就活」にならい、「婚活」と名付けたのは、「パラサイト・シングル」「格差社会」などの名付け親としても知られる山田昌弘・中央大学教授です。それは、ジャーナリストの白河桃子さんが執筆した『AERA』の2007(平成19)年11月5号が初出と言われています。

この二人が、翌2008(平成20)年に上梓した『「婚活」時代』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)は、晩婚化、非婚化の要因と、そこから抜け出すための婚活の必要性、それを成功させる方策までが説かれて評判となり、婚活という言葉が市民権を得るまでになりました。

婚活ブームに続いて「妊活」ブームが訪れました。この語は、夫婦が意志を持って子どもをつくろうと活動することを指します。妊活がブームとなった背景は、初婚年齢の上昇とそれに伴う不妊治療と高齢出産の増加がありました(日本産科婦人科学会による高齢出産の定義は1991年までは30歳だったが、以後、35歳に改められた)。

野田聖子さんが10年の不妊治療を経て出産

高齢で結婚して、妊娠を切望するという妊活ブームの象徴ともいえるようなニュースが、2011(平成9)年1月、永田町に駆け巡りました。野田聖子衆議院議員が10年の不妊治療を経て、米国で卵子提供を受け、49歳で長男を産んだのです。不妊治療として体外受精を14回も行い、流産も経験した後の喜びでした。

野田聖子『私は、産みたい』(新潮社)撮影=プレジデントオンライン編集部

卵子提供プログラムは海外で広く行われており、不妊治療をしているカップルの認知も高まっているけれど、当時の日本ではまだ関係する法律がありません。日本産科婦人科学会が業界の自主ルールとして、国内で卵子提供プログラムは行わないと決めたため、事実上日本で卵子提供を受けることはできなくなっておりました。

野田さんは当時、こう述べています。

「出自を問わず、すべての子どもは宝。子どもに対する意識をそう統一させるべきです。(略)。本当に少子化が深刻だと思うなら、そこを規制緩和しないと小さな枠からしか子どもは生まれてきません」(『AERA』2011年4月18日号)