個性を潰す方向に向かってしまう
一つは、教師の意識が「集団に合わない個性をどうなくすか」に向かうことだ。
みんな一緒を実現するには、集団をそろえるための基準が必要となる。教師によって指導に差が出ないように、統一した基準が作られる。そして、基準が作られると集団を統一することが目的となり、教師の意識は「集団に合わない個性をどうなくすか」に向かうのだ。
その最たる例が「校則」である。先にも述べたように、校則はルールの意味よりも、集団を統一することが目的になっている。みんなが同じ見た目にそろうように、膨大な労力をかけて指導する。子どもは自分の個性よりも、周りに合わせることを優先するようになり、自己主張が苦手になる。それにもかかわらず、社会に出ると「自分で考えてやりたいことをやれ」と言われるから無茶苦茶だ。何でもかんでも統一して、個性を潰す教育に未来はない。
空気が読めない子が排除される
もう一つは、集団に合わせられない子が排除されることだ。
「空気が読めない子」と言われる、集団に合わせるのが苦手な子がいる。私はこの「空気が読めない」という言葉が嫌いだ。理由は、この「空気」とは集団の中でも一部の影響力がある人間、もしくは多数派のグループが作り出したものであり、読むほどの価値がないからである。
例えば、学級でレクリエーションの内容を話し合うとする。内容が多数決で鬼ごっこに決まったら、当然鬼ごっこをやりたい子たちは全力で楽しむ。だが、走るのが苦手な子は参加こそするけど、心から楽しめないかもしれない。それなのに多数派からは「あいつはノリが悪い」「空気が読めないやつだ」と言われてしまう。それがいじめの原因にもなる。
「みんな一緒」を教師が強く訴えれば訴えるほど、周りに合わせるのが苦手な子を排除する空気が教室に充満していくのだ。
集団生活で学ばせたいことは、空気を読んで嫌なことを我慢する力ではなく、自分の気持ちを相手にうまく伝える力である。