「私小説」VS「本格小説」
まえにも書きましたが、芥川賞は、純文学の新進作家のための賞です。直木賞とともに、文学賞のなかでは例外的に、一般マスコミでも大々的に選考結果が報道されます。このため、文学にあまり関心のない人のなかには、
「その年に出版されたあらゆる小説のなかで、最高の作品がうける賞」
だと、誤解している人もあるようです。
村上春樹は、デビュー作の『風の歌を聴け』と、2作目の『1973年のピンボール』で、芥川賞候補になりながら、受賞にはいたりませんでした。どちらの作品も、選評を見ると、「おもしろい」とか「よく書けている」とか、高い評価があたえられています。にもかかわらず賞をえることができなかったのは、
「この作者に書きつづける資質があるかどうか、もうすこし様子を見たい」
という理由からでした。
春樹のデビューに先立つこと3年、24歳の若さで芥川賞をうけたのが村上龍です。
龍が、『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞をうけたときの選評には、
「欠陥だらけの作品だが、書き手に資質があることはうたがえない」
ということばが見えます。ここでいわれていることは、春樹の芥川賞が見おくられた理由とちょうど反対です。
龍と春樹の運命をわけた「資質」というのは、具体的にはなにを意味しているのでしょうか?
日本の純文学小説は、ふたつの流派が対立しつつ歴史を築いてきました。いっぽうは、実生活をありのままにえがいた「私小説」ばかりを書くグループ、もういっぽうは、架空のストーリーを組みあげる、「本格小説」をおもに手がける作家たちです。
「私小説」派の作家は、田山花袋、志賀直哉、葛西善蔵、川崎長太郎、瀧井孝作など、「本格小説」派の代表には、夏目漱石、谷崎潤一郎、芥川龍之介、三島由紀夫、大江健三郎がいます。
いっけんしてわかるように、「本格小説」派の作家のほうが、「私小説」派よりはるかに有名です。最終学歴をしらべても、「本格小説」派にはずらりと東大卒がならびますが、「私小説」派は大学を出ていなかったり、中退だったりです。
これは、センスや教養があり、「架空のお話」のネタをしこむのにたけた書き手は、「本格小説」を目指すのがふつうだったからです。「私小説」ばかり書く作家は、発想力やリサーチ能力にとぼしく、自分の生活しか書くことがない、というタイプがほとんどです。
したがって、題材のあたらしさや着想のあざやかさでは、たいていの「私小説」派は「本格小説」派におよびません。そこで、「私小説」派は、「真剣さ」をセールスポイントにしようとします。
「才能はないかもしれないが、文学への情熱はだれにも負けない! だから、人に知られたらこまる恥ずかしい話や、やばい話もどしどし書く。エリート気どりの『本格小説』派は、ここまでマジに文学をやっていない!」
――こうした発想のもと、「私小説」派の作家たちは、自分の「恥」や「犯罪的ふるまい」を小説にしていったのです。