なぜ構想から38年も時間かかかったのか
最後に相鉄・東急直通線の歴史について触れておこう。
新線のきっかけとなったのは、1985年7月の運輸審議政策委員会が答申した東京圏での高速鉄道網整備計画路線として、「二俣川―新横浜―大倉山・川崎方面」が記載されたことだ。のちに「神奈川東部方面線」と称される。
これを受け、神奈川県、横浜市、川崎市はさまざまな調査の末、1990年8月に「第3セクター鉄道として2000年の第1次開業を目指す」ことを発表。1991年には神奈川県、横浜市、川崎市が合同で事務局を設立し、ルートの検討を始めた。さらに東急、相鉄、京浜急行電鉄の出資を見込み、交渉を始める。
しかし、バブル崩壊による景気低迷などの影響で、1996年に東急、相鉄、京浜急行電鉄が出資の見合わせを表明。やむなく神奈川東部方面線計画は暗礁に乗り上げ、保留の決断を下す。その後、1998年に「建設は第3セクター、運営は民間鉄道」に方針転換するも大きな動きはなかった。
動きが見えたのは2000年のこと。1月27日に、運輸審議政策委員会で神奈川東部方面線(二俣川―新横浜―大倉山間)を「2015年までの開業が適当」という答申があったのだ。
これを受け、2004年9月8日、相鉄とJR東日本が〈西谷―横浜羽沢〉間に新線を建設し、相互直通運転実施の検討が明らかにされた。
当時、横浜羽沢駅は貨物駅だったため、JR東日本の旅客列車は通過していた。相鉄と相互直通運転を行うことで、一般列車を走らせることができるようになったのだ。
ただ、この計画にはわずか2キロの新線を建設するだけで総事業費が数百億円にのぼる難点があった。
新線の持つ大きなポテンシャル
実現に向けて大きな追い風となったのは、2005年8月1日に都市鉄道等利便性増進法施行された。
これにより建設費用は国と自治体が3分の2、残る3分の1を独立行政法人の鉄道・運輸機構が負担したうえで、東急と相鉄は線路や駅を借りて営業するスキームになった(JR東日本は名を連ねていない)。
負担が分散したことで、相鉄とJR東日本の相互直通運転は「相鉄・JR直通線」として大きく前進。長年の懸案だった新横浜方面も西谷―新横浜―日吉間の「相鉄・東急直通線」として具現化した。
当初、相鉄・JR直通線は2015年3月まで、相鉄・東急直通線は2019年3月までの開業を目指していたが、前者は相鉄線とJR線の接続工事が長引いたこと、後者は用地取得の難航などで、共に4年遅れでの開業となった。
苦労して生まれた相鉄・東急新横浜線には課題もあるが、それ以上に神奈川―東京間の利便性向上や、人口増が見込まれる神奈川県西部の開発、渋谷への注目度アップなど多くのポテンシャルを秘めている。今後も注視していきたい。