抗がん剤が効かず、強く思った「生きたい」

ところが、がんの専門病院で抗がん剤治療を受けてもまったく効かず、手の打ちようがないといわれる。そんなとき海野さんは、夫から「優子はどうしたい?」と聞かれた。

「私が『生きたい』と答えると、彼はとにかく生きられる可能性があるなら、あらゆる治療をやってみようと励ましてくれました。そこから、ものすごい勢いで調べてくれて……」

“夫はストイックな人で”と苦笑するが、妻の命をつなぐために全力を尽くしてくれた。彼も起業して社長業に追われていたが、あらゆる論文を読み、何人もの医師に会いに行っては情報収集にあたる。やがてかわいいイラストのような資料を持ってきて、新しい治療法があることを説明してくれたのだ。

写真=海野さん提供
生まれたばかりの子どもを乳児院に預け、抗がん剤治療に専念

医師を信頼し、生きるための挑戦を決めて、自宅から1時間かかる病院へと転院する。そこでさまざまな治療を試みたところ、腫瘍は小さくなり進行も止まった。数カ月で退院すると、体調は徐々に良くなっていった。

がんの宣告から約1年間、闘病生活を送った海野さん。何よりツラかったのは生後間もない娘と離れて暮らすことだった。ようやく乳児院から迎えて、親子3人の暮らしが始まる。娘は保育園へ通い始め、自分も職場復帰を果たす。夫が車で送迎してくれ、海野さんは六本木のオフィスへ車椅子で通うようになった。

写真=海野さん提供
乳児院にて。生後間もない娘と離れて暮らす決断は何よりもツラかった。

だが、産休前と同じ部署へ戻ったものの、組織の体制や上司も変わっていた。自分ができることを探すのも大変だったと振り返る。

「当たり前にできたことができなくなり、周りの人もどう配慮すればいいかわからなかったでしょう。私は研究開発組織のPR担当だったのでイベントがあっても、車椅子で行くのは迷惑をかけてしまうと気後れしてしまう。時短勤務では成果も出せず、挫折感を味わいましたね」

自分の力不足を痛感し、今の仕事を続けるのは無理かもしれないと心が揺れる。そんなとき人事部の人から障害者雇用を積極的に行っている「Annotation & Business Support」という部署があることを聞いた。障害のある人が能力や適性に応じて仕事ができるようにするための採用枠だが、メルカリ内に存在していることも知らなかったという。

「私は当事者の気持ちがわかるし、健常者の気持ちもわかる。だからこそ、自分にしかできないことがあるような気がしたのです。メルカリ初の車椅子社員として、障害者の方が働きやすい組織づくりみたいなことができないだろうか。働く障害者に仕事をおもしろいと思ってもらえるように、何か貢献できればと……」