立派とは言えないふるまいをすればバカ

では、立派な人間とはどのような人のことでしょうか。おそらく、本稿でバカだとして取りあげている性質とは逆の性質を備えた人のことでしょう。

他者に敬意を払う。常識的にふるまう。マナーがいい。ルールを守る。モラルが高い。親切で優しく愛情深い。共感力が高い。冷静に行動できる。知的で考え方が柔軟で話し合いができる。何かあっても寛容に受けいれて、他の人と共生できる。そうした人ではないでしょうか。

したがって、やはりわたしの結論は、先ほど「バカとはモラルの低い人間」のくだりで書いたのと同じです。

人は誰しも、立派な人間になろうと努力しているものですが、それでも、たとえある時ある場所に限ってのことでも、他の人と比べてうまくできなかった人、つまり、立派とは言えないふるまいをしてしまった人をバカとするなら、やはりバカは実際にいると考えてよい、となります。

このことは、細かい点では多少異論があっても、みなさんに納得していただけると思います。

バカは醜悪で不快

ただ、ここでおかしなことが起こります。バカをバカだと思う人は、バカに比べれば立派な人間のはずなのに、なぜかバカを止められないのです。

先ほど「バカは人を傷つける」のくだりで、街で見られるバカの事例をいろいろ挙げましたが、自分のことをいわばバカの目撃者役だと思っている人たちは、自分のほうが人間的に上だと感じてもいるはずです。

どういうことかというと、仮に誰かが、あるふるまいをしたために、(たとえ一時的にでも)低レベルだとみなされるなら、他の人たちはそれより高いレベルにいることになるはずだからです。

ですから、誰かのふるまいが間違っている、非生産的である、危険である、という場合、周りにいるわたしたちがすべきことは、その人よりも優れた人間性を発揮して何か行動し、ちっとも怒らずに、困った状況をすんなりと立て直し、バカによる被害を食い止めることでしょう。でも、それができません。なぜでしょうか。

それは、バカはモラルに欠ける、あるいはモラルが低いというだけではないからです。ここでバカについて、もうひとつ大事なことを言います。

「バカであることはただの欠点ではなく、醜悪でもある」ということです。バカであることは、人間の欠点の中でも不快なほうだと言えます。

嫌悪感で親切心も愛情も消え失せる

本当の問題はそこから始まります。まずわたしたちは、人のことを劣っているとみなす自分にショックを受けます(もちろん、劣っているとみなすには「必ず」、「それなりの」理由があります)。

そして、自分が、人に対して引いたり、軽蔑したり、嫌悪したりという感情をもっていることに気づいてまたショックを受けます。さらに、そうしたネガティヴな感情が生まれると、もともともっていたポジティヴな力は、まさに根こそぎ奪われてしまいます。

たとえば、公衆トイレで流さずに出ていった不潔なバカ男がいて、その後にあなたが入ってしまったらどう思いますか? あるいは、たまたま出会った資産家のバカ女が、自分が金持ちだから何をしても許されると思っていて、あなたに失礼な態度を取ったらどう思いますか?

わたしたちは、そんな人たちより自分のほうが人間的に優れていることを、理屈でも感覚でもわかっています。でも、たとえ優れた資質をもっていたところで、それだけでは、その人たちのバカさを喜んで受けいれることなどできません。

その逆で、ものすごくイライラします。相手をその場に置き去りにしたいと思うことや、いっそこの世から消し去りたい、と思うこともあります。

そうした気持ちが強ければ強いほど、相手のことをバカだと強く思います。すると、相手に対する親切心や愛情は、潮が引くようにサーッと消えてしまいます。バカとは、自分で自分の周りに引き潮を作っているような存在です。