「ふたりで家族になりましょう」

ところが夜間の学校に通っている2年間にサンサンさんは家族を得ることになる。

その人とは教会で出会った。当時50代の光子さん。最初に会ったとき、「あなたは若いのにお化粧もしないで、珍しいね」と声をかけてきた。少しずつことばを交わすようになり、何度か家に招かれた。光子さんはもともと学校の先生をしていたが、体調を崩して退職したのだと自身の境遇を語った。独身だ、とも。そしてある日、光子さんは言った。

「ひとりで歳をとっていくのはさびしいから、ふたりで家族になりましょうよ。私の養女になりませんか」

そのとき、サンサンさんが考えたことは――、

「光子さんひとりなら、私でも面倒を見ることができるかもしれない」

なにその発想、自分の暮らしだってギリギリなのに。聞いているわたしはひっくり返りそうになった。でも仕方ないのだ、サンサンさんはあの奇特なお母さんの娘なのだ。実際ミャンマーのお母さんに報告したら、電話口に出た光子さんに向かって平然と「うちの娘をさしあげますね。よろしくお願いします」と言ったらしい。なんて肝のすわった母娘だ……。

あれから30年近く経ち、現在もサンサンさんは光子さんの面倒を見続けている。認知症になった光子さんを一旦は施設に預けたが、「そばで暮らしたい」と言うのでつい最近退所させたところだとか。

「養母から経済的に援助してもらったことは一切ないです。裕福な人ではないからね、その点はよかったと思う。財産目当てで養子になった、なんて勘ぐられることもないでしょう」

そう言ってサンサンさんは笑った。なんかもう神々しくてことばがない。

怖いのは強制送還と病院に行くこと

日本人と養子縁組したからといって滞在資格がもらえるわけではなく、サンサンさんのビザは切れたままだった。

結婚はしないと思っていたが、29歳で伴侶を得た。1歳年上のミャンマー人。やはり88年の民主化運動後に国外に出て、苦労を重ねて日本にたどり着いた人だった。彼が携帯電話の契約をする際、日本語ができるサンサンさんがサポートした縁で親しくなった。挙式はサンサンさんが通う教会で、披露宴はサンサンさんの勤め先の印刷会社の人たちが予約してくれたホテルで、多くの人に祝福されて執り行われた。

写真=iStock.com/Kajanan Sanitkunpai
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「ふたりともオーバーステイだったから、結婚式までは捕まらないようにしようねって言い合って」

日本政府はオーバーステイの外国人を黙認し長らく労働力として重宝してきたが、バブル崩壊後は取り締まりを強化する方針に転じていた。警察もマスコミも「不法滞在」という言い方をするようになった。ふたりがもっとも恐れたのは、摘発されてミャンマーに強制送還されること。その次は病院に行くことだった。オーバーステイでは保険証がもてず、医療費は10割負担。おいそれと払える額ではない。

「高い熱が出ても、あったかいものを飲んで働いて汗を出せば元気になるっていうのが私たちの考え。あとは市販の痛み止めで治す」