ユニークさとともに感じられる切実な愛情
また、子供の頃の思い出を際限なく語る父と接しながら、髙橋さんはニーチェの〈わたしは、永遠にくりかえして、同一のこの生に帰ってくるのだ〉(『ツァラトゥストラ』同)という言葉の意味を読み解いたかと思えば、散歩の途中で息子を指さして「あたしはこの人の息子です」と言った父の反応に触れ、大乗仏教を確立した龍樹(ナーガールジュナ)の次のような一文を引用する。
〈父と息子とのふたりのうち、いずれが息子であり、いずれが父なのか。それらはふたりとも、生じさせる者であるから父の特徴を持っているし、また生じさせられる者であるから息子としての特徴ももっている。ここにこの際、どちらが父で、どちらが息子なのか、という疑いがわれわれに生じるのである〉(「廻諍論」梶山雄一訳/『大乗仏典 第十四巻』、中央公論社)
哲学書を手掛かりに父の「いま」を理解しようと奮闘するそんな姿からは、ユニークさとともに切実な愛情が感じられるはずだ。
「この社会や人間関係は、あらゆることが『約束事』で成り立っています。例えば、親父は『今の季節は?』という問いに、『別にどうってことないです』と答えました。これも考えさせられましたね。
季節というものがあるわけではなく、私たちが季節を決めているんですよね。いわば約束事であって、親父はその決めることに対して『別にどうってことないです』と評したんじゃないかと思ったんです。
つまり約束事と世界を認知することは別なんです。認知症は約束事には従いにくくなりますが、世界を認知することについてはむしろ鋭敏になる。『存在』や『時間』のありのままの本質を問うのが哲学だとすれば、認知症になった親父の言葉はまさにその哲学そのものだったと思うのです」
認知症はノンフィクション
そうして髙橋さんは父親の言葉、さらには父親自身への理解を深めようとしていく。本書を読んでいると、そのうちに難解な哲学と認知症への理解が、相互に深まっていく気持ちにさせられるだろう。
「正常な認知というものは、実は社会の約束事に則ったフィクションです。その約束事が取り払われた親父の言葉は、いわば文字通りのノンフィクションだと思いました。つまり、認知症というのはノンフィクションなんです」
昭二さんが亡くなったのは3年前――。
〈私の顔の右半分あたりに「いる」という感覚はだいぶ薄れましたが、時折、自分が父と同じことをしていることに気がつきます〉
あとがきにそう綴った髙橋さんは、認知症の父の「言葉」ととことん向き合った記録であるこの本を、「きっと親父は『そんなこと言ったっけ?』と笑ってるかな」と語った。