「中動態」的キャリア論

このことを理解するヒントになるのは、哲学者の國分功一郎氏による『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)によって広く知られるようになった、「中動態」の議論です。

「中動態」とは、「受動態」「能動態」という私たちがよく知る態とは異なる態の在り方です。多くの方にとっては、英語の授業を思いだしてもらうのが早いでしょう。動詞の「態voice」を示す文法用語として私たちが慣れ親しんでいるのは、「能動active」と「受動passive」という対比です。例えば、“They are displaying the hats.”は能動態で「彼らは帽子を展示しています」と訳されますが、“The hats are being displayed.”は受動態で、「帽子が展示されています」という同じ文意を示すことができます。

しかし、言語学の知見からは、この「受動態」と「能動態」という区別は全く普遍的なものではなく、歴史的にはかなり後世になってから出現した新しい文法規則であることが分かっています。

そこで明らかにされてきたのは、能動態でも受動態でもない「中動態middle voice」 という態の存在です。しかも、この「中動態」は、「能動態」と「受動態」の「間」ではなく、「能動態」の反対側、つまり能動態に対してついになっていたということです。

筆者は、日本人のキャリアの特徴とは、まさにこの「中動態」的なあり方にあると考えています。

図表=筆者作成

与えられた環境の中で主体的に働く日本人

日本人は「受け身」だと考えられていますが、現実の一人一人の働き方を見てみれば、企業のなすがままにされているわけではありません。

配属後に訓練を受けて適応するのも、出世競争も、査定評価を受けるのも働く個人の側です。日本の雇用は「年功序列」だと単純に呼ばれ続けていますが、それはかつてのような年齢と賃金が直接紐づいた「純粋年功」ではなく、現場で半期か1年毎に評価査定を受け続ける、「査定付き年功」となっています。そこで行われる目標管理のプロセスもまた「単なる受け身」とは程遠く、目標記入から自己評価にいたるまで主体的なコミットメントを必要とします。

こうしたキャリアの特徴をもつ日本では、「意思」という強い形での主体性の発揮が無くても、昇進レース、配属後の適応、目標管理といったプロセスを経て、「そこそこ能動的に」仕事ができてしまいます。かつ、日本企業においてはポストの空きがなくても処遇は徐々に上がっていきます。

つまり、完全に働き方やキャリアを企業にコントロールされているような状況からも、自律した個人が自ら発揮する主体性からも、ともに離れた場所。それこそが日本のビジネスパーソンが働いているリアルです。

だからこそ、「普通の」ビジネスパーソンと話していると、「異動で新しい出会いがあった」、「やりたいことは入ってから考えればいい」、「MUST(やらなくてはいけないこと)の中からWILL(意思)が見えてくる」といった言葉が頻出します。すべて、こうした「中動態」的なキャリアをよいもの、否定すべきではないものとして捉えている言説です。

例えるならば、中動態的キャリアは会社という机の上で回るコマのようなものです。コマは自ら回ることはできません。コマが回る「動力」が生み出されるのは、「自分自身ではない」企業が与える力です。しかし机の上で回っている「コマ」の一つ一つをとってみれば、移動しつつバランスをとりながら速度を調整し、よりうまく、より長く回ろう=働こうとする、「能動的な主体」そのものです。「受動的に回されたコマとして能動性を発揮する」という構図です。

写真=iStock.com/Job Garcia
※写真はイメージです

日本人のキャリアをこのような「中動態的」なものとしてとらえると、しばしば指摘される低いエンゲージメントも、転職の少なさも、「学ばなさ」も、見通しよく理解することができるように思います。