雑踏の中へ逃げていった少女
「この子を今晩だけでもいいから、とりあえず泊めてくれませんか。それで明日以降、福祉につないでもらえたら。それだけでもいいんですけど。ほんとうはわたしがそうしたいんだけど、あしたは幼稚園の仕事もあるから、バスには乗らないといけないし」
「無理ですよ。それにもう夜です。未成年者を親にも警察にも言わず、勝手に教会に泊めることはできません。わたしもあなたも男性ですよ? そんなことが露見したら、教会の社会的信用にかかわります。彼女に親の連絡先を尋ねてください」
「いや、親には連絡できない。彼女は親には会いたくないと言っている。警察のことも警戒している」
「やっぱり警察に連れて行きましょうよ。警察に保護してもらうしかない」
夜行バスの時間は迫っていた。呼ぶべき同僚を誤ったのか? いや、彼が言うことももっともだ。彼女が大人だったら、彼も教会に宿泊させることに同意したかもしれない。だが中学生である。ここは近代以前のキリスト教世界ではない。牧師の独断で未成年を、誰にも告げず教会に泊めることなどできない。やはり最初から警察を呼ぶべきだったのか?(緊急時に24時間体制で対応する児童相談所の窓口があることを、当時のわたしたちは知らなかった)
そのあいだも彼女は少しずつ後ずさりを続けた。やがて、わたしたちが追いかけても逃げきれるほどに遠ざかると、彼女は繁華街の雑踏へとあっという間に姿を消した。バスは到着し、同僚に見送られながら、わたしはステップに足をかけた。
いったいどうすればよかったのか
なにもできなかった――夜行バスに揺られながらシートの背もたれを倒し、わたしは目をつむる。まぶたのうらに彼女の、幼さの残る屈託のない笑顔が浮かぶ。同時にわたしを突き刺すように見る、あの二つの野生の眼が。弾むように話す声と、息を殺す沈黙。わたしの膝の上で安心して眠るまぶたと、警戒に光りつつ後ずさる細い眼。
「なにもできないくせに、なぜ、わたしにやさしくした?」
「うらぎり、ぜつぼうさせるために、わたしをしんらいさせ、きぼうをもたせたのか?」