ディベートは「論破」が目的ではない
【鴻上】日本では海外のディベート文化が間違った翻訳をされてしまっているのも問題ですよね。ディベートに勝ち負けの要素はありますが、実は論破が目的じゃないんです。
たとえば安楽死を認めるか、認めないかをディベートした後、安楽死を認めなかった側が、立場を変えて安楽死を認める立場に回ってディベートをする。物ごとを多面的に見るために、意見を発するための仮の立場でしかないんだから、論破とは真逆なはずなんです。
しかし、日本人は立場を変えることが不得手なので、日本的に誤解して、ディベートは論破しなきゃならないと思ってしまっているところがあります。
【中野】さらに、ディベートでは常に勝たなきゃいけないと思っているんですよね。相手の主張の面白いところを取り入れようという姿勢があまり育っていないのは残念です。
実はトランプ前大統領は共感力が高かった⁉
【鴻上】一般的に、ズバズバ切り込んでいく人は、格好良くて賢いという文脈で捉えられていますが、「いやいや、共感力がないだけじゃないの?」という考えで見たほうがいい場合も多いと思います。
集団のボスだったトランプ元大統領でさえ、集団の身内に関しては圧倒的な共感力がありました。切り込むだけで、共感力が少ない人は、敵だけを作ると思いますね。
【中野】もし日常生活で論破することが優位ならば、みんなが論破できるように進化しているわけでしょう? そうなっていないということは、我々日本人はずっとあえて論破をしないほうを選んでいるんじゃ?
【鴻上】ところが、昔、『「NO」と言える日本』(光文社)という本がはやった後、今までニコニコしているだけだった日本人のビジネスマンが、海外で率先してノーと言い出しちゃって100か0にしてしまったことがあったんです。51対49で残す形で勝つほうが、のちのちの交渉に優位なはずなのに。
【中野】「本部に聞いてみます」と保留にする日本人と仕事をすると、なかなか進まないという人もいますが、それはやんわりとしたノーで、進めたくないということの意思表示だったりする。そういう曖昧なコミュニケーションをしてきた日本人が、形だけ欧米のまねをしてもうまくもっていくのは難しいですよね。